うざいマンション

うざいマンション

第一章 参加

 「はい、それでは印鑑もいただきましたので、こちら鍵になりますね」
不動産屋の胡散臭い笑顔を浮かべた男が、103と書かれたネームプレートの付いた鍵を、賃貸契約書の上に置く。それを一人の青年が手に取る。
 「マルミエール戸越……」
青年は呟く。
 「あ、オートロックですし、一階ですが塀が高く歩道からはまず見えないので安心してください。セキュリティはばっちりです」
胡散臭い笑顔を浮かべた男は少し焦った様子ですかさず言う。
 「ああ、はい。どうせ一日中カーテン閉めとけばいいし、気にしないです」
青年は低いトーンでそう答える。
「とにかく、物理的に丸見えにはならないのでご安心を」
胡散臭い笑顔を浮かべた男は更にフォローする。
 「はあ。だから大丈夫ですよ」
青年はそういうと賃貸契約書をリュックにしまい、不動産屋を後にする。
 「よいマンションライフを!」
胡散臭い笑顔を浮かべた男は出ていく青年に一言投げかける。

 「マルミエール戸越、ここか。まあ築浅だし駅からも徒歩4分だから十分だな」
青年は3階建てのマンションを見上げそう呟く。
 青年はもらったばかりの鍵を、マンションエントランスのオートロック解除用の鍵穴に差し込む。静かな音と共に開いたドアからマンションの中へと進む。
 「えーっと103か、一番奥だな」
青年は独り言を言いながら103号室へと向かう。
とその時、ドアの鍵が開く音と共に102号室のドアが開く。中からはアンジェラ・アキのようなセミロングでパーマのかかった髪型の細見の男が出てくる。
 「あ、君が103に来た人?ようこそ、いらっしゃい!いやー待ってたよ、隣がいなくて寂しかったんだよね。いやー嬉しいな、たまんないね。あ、オレバーミヤンって言うんだ。だからバーミヤンって呼んでくれていいよ!」
バーミヤンは青年の反応に構わず、青年の肩に手を回ししゃべり続ける。
 「しょうゆとかいくらでも貸すからさ、言ってよ!でも一日に10回とかは貸さないよ。9回までなら全然OKだけどね」
 「あ、はあ。よろしくお願いします。自分山本悟志っていいます。さとしって呼んでください」
さとしは当惑気味で答える。
 「了解!さとし!取りあえずオレバイト行かなきゃだから、また後でね。面白い話いっぱいすっから楽しみにしてて」
バーミヤンはそういうと足早にマンションのエントランスから出ていく。
 「なんだ?めっちゃ慣れ慣れしいやつだな。しかも面白い話ってなんだよ」
さとしはそう呟くと103号室へと入るため鍵を開ける。とその時エントランスの自動ドアが開く。
 エントランスから茶髪で髪をエッフェル塔のように巻き上げた女が入ってくる。明らかにキャバクラで働いている風貌である。
 「あーーーー!新入り君?いいねー、来ちゃったね。ハハハ」
エッフェル塔の女はハイテンションでさとしに話かけ、さとしの背中をバンバン叩く。
 「あ、よろしくっす」
さとしはまたもや当惑した表情で言う。
 「あーーーー!ごめんごめん、自己紹介。あたしハイコ、よろしくサマンサ・ベガ」
 「あ、自分さとしっす」
 「さとしね。ポケモンゲットだぜ?」
ハイコは問いかける。
 「え?」
さとしは当惑しきっている。
 「だーかーら、ポケモンゲットだぜ?」
ハイコは同じ問いかけをする。
 「何すか?」
さとしは更に当惑から動揺に変わり困った顔をする。
 「さとし、ポケモンゲットだぜ?」
ハイコは更にさとしに構わず問いかける。
 「……ポケモンゲットだぜ」
さとしはギリギリ聞き取れるくらいの声で呟く。
 「イエーイ!ポケモンゲットだよね!ハハハ」
ハイコは満足したようにそう言うと、2階へと続く階段を上がっていく。
 「は?なんだあいつ。意味わかんないんですけど」
さとしはハイコの後ろ姿を眺めたまま、小さい声でそう呟く。
 「ふう」
大きくため息を吐き、さとしは103号室のドアを開け中へと入る。

 さとしは103号室に入ると、何もない床に仰向けに横になる。天井の電灯から垂れている紐をボーっと眺める。
 「社会人になって3カ月か。仕事も思った通りそんな面白くねーもんだなぁ。まあ初めから分かってたけど」
そう呟きため息をつく。
 「さっきの女はキャバ嬢かな。ハイコつったっけ。フラフラして楽しそうでいいよな。ちょっと可愛かったけど。あとあのキリストみたいな髪型のやつ。バイトつってたな。フリーターか。将来どうすんだよな、ったく」
またため息をつき、体制を変え横を向く。
 「オレとは住んでる世界が違うわ」
右手で頬杖を付きそう呟きながら、ふと視線の先の窓を見る。高い塀があり歩道は見えない。その時塀からトラックの荷台が覗き見える。
 「お、引っ越し屋きたな、どんだけ待たせんだよ」
そう言うとさとしは玄関へと向かう。

「さてと、ぼちぼち片すか」
部屋に運び込まれた荷物を眺め、さとしは呟く。

 「ふう、終わらねぇな」
三つ目の本や文房具などが煩雑に入れられた段ボールを開くと、さとしは呟く。
 「ピンポーン」
と、その時玄関のチャイムが鳴る。さとしは手にしていた「今日から俺は!!」の単行本を近くの段ボールの上に置き玄関へと向かう。
 「お、やってるね!」
スーツ姿の女の子が開けられた玄関のドアから元気よく顔を覗かせる。
 「もう嫌気さしてたんでしょ。ちょっとなら手伝うよ」
スーツ姿の女の子は玄関で靴を脱ぎながら言う。
 「リカもう仕事終わったの?いつもより早くない?まだ五時だぞ、公務員みたいだな」
さとしは少し驚いた顔で言う。
 「さとしが引っ越しで大変だろうから、早めに上がってきちゃった」
リカは笑顔を浮かべる。
 「調度良かった、もう疲れ果ててたわ」
さとしは玄関の壁に寄り掛かったまま言う。
 「いい部屋だね!って、何これ!ほぼやってない状態じゃん!」
リカは部屋中に置いてある段ボールを見て呆れたように言う。
 「しょうがねーだろ、荷物多いんだから」
 「しょうがないなぁ、じゃあサクっとやっちゃお」
リカはそう言うとスーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を捲りあげる。
 「助かる!さすがリカ様」
さとしはおだてるように言う。
 「え?リカ様?エリカ様?誰が沢尻だよ!」
リカはノリツッコミをする。
 「いや、別に」
さとしは沢尻エリカの真似をして答える。
 「はい、やるよ」
リカはさとしのボケを流しつつ段ボールを開ける。開いた段ボールから本や服を取り出し、床に広げていく。
 「あ、何これ!ぬいぐるみじゃん。前の家にあったっけ?ちょっとはかわいいとこあんじゃん、さとし~」
リカは段ボールの奥からカラフルな色使いのペンギンのぬいぐるみを取り出し、さとしに見せる。
 「ち、ちげーよ。それはガキの頃から持ってるから流れで持ってるだけだよ!ずっとしまってあっただけだし」
さとしは顔を少し赤くし、焦ったように言う。
 「ふ~ん、ほら、くまちゃんもいました~」
リカはもう一つくまのぬいぐるみを取り出し、手に持ったくまのぬいぐるみを左右に揺らしながらさとしに見せる。
 「それだけだよ!誰だってぬいぐるみくらい持ってんだろ」
 「好きなんじゃないの~?あと恐竜のぬいぐるみと、……これだけかな!」
リカは恐竜のぬいぐるみを取り出し、先に取り出したペンギンとくまの横に置く。
 「からかってないで早く片付けてくれよ」
さとしは少しイライラした声で言う。
 「はいはい、やりますよ、私は家政婦です」
リカは被害妄想的にそう言うと、荷物を取り出す作業を続ける。その姿を見てさとしも近くの段ボールを開け始める。

 「じゃあ友達と飲み行くから帰るね」
最後の段ボールを畳み終えるとリカは言う。
 「おう、わざわざありがとな。飲みすぎるなよ」
 「はいはい。明日また来るまでに完全に終わらせといてよ!」
リカはそう言うと、スーツのジャケットを片手に玄関から出ていく。さとしはリカを見送ると玄関のドアを閉める。
 「あー、もう七時か、腹減ったな~」
さとしは、調度七時を差そうとしている床に置かれた壁掛け時計を見つめ漏らす。
 「ピンポーン」
すると玄関のチャイムが鳴る。
 「リカのやつ何か忘れたのかな?」
さとしはそう言うと玄関のドアを開ける。
 「どうした?忘れ…」
とそこにはバーミヤンが立っている。
 「お疲れさん」
バーミヤンは優しい微笑みを浮かべる。
 「バ、バーミヤンさん、どうしたんですか?」
さとしはリカがキリストに変わった衝撃を受け、驚いた顔でバーミヤンに話しかける。
 「どうもこうも引っ越し祝いでしょ」
バーミヤンは当たり前と言った口調で言う。
 「え?何すか?」
 「いいからついてきなよ」
バーミヤンはそういうと親指を玄関の外の方に向け合図する。

 玄関を出るとバーミヤンはサンダルをペタペタと言わせながら二階へと階段を上がっていく。さとしは戸惑いながらそれについて行く。
 「あの、どこ行くんですか?」
さとしは前を歩くバーミヤンに質問する。
 「上だよ」
バーミヤンは振り返らずに答える。
 「上?二階ですか?」
 「違うよ、もっと上」
 「三階ですか?」
 「違うよ、もっと上だって」
さとしはマンションが三階建てであることをもちろん知っていたので更に不安になる。
 (まさかこいつキリストだけにオレを天に召す気じゃねぇだろうな)
さとしは心の中で呟く。
 「そのまさかだよ。このマンションには屋上があるんだ」
 「え?聞こえてました?」
さとしは心の声が漏れたのかと思い戸惑う。
 「え?何が?」
 「あ、何でもないです」
さとしは心の声が聞こえていたわけではないことに安堵する。
 「ここだよ」
そう言うとバーミヤンは屋上へと繋がる扉を開く。

 バーミヤンがドアを開くと、煙が充満している。
 「ゲホッ、ゲホ」
さとしはその充満した煙を吸い込み咽かえる。
 「お、そうか今日は七輪ピックの日か」
バーミヤンは煙をものともせず笑顔で呟く。煙が晴れるとそこには明らかに土方のあんちゃん的な、筋肉隆々の色黒の男が団扇を片手に七輪で魚を焼いている。七輪の横にはスラっとした長身で黒髪の女が腕を組んで立っている。
 「ちょっと焼き加減足りてない!」
黒髪の女は土方のあんちゃんに指示出しをしている。
 「お、ごめん。気合入れるよ」
土方のあんちゃんは見た目とは裏腹に優しい声で返答し支持に従う。七輪の奥ではビールやチューハイの缶をシャンパンタワーかのように積み上げるストールを掛けた小柄な女、そして屋上に置かれた古びた茶色いソファでは、ウィスキーを片手に一人大声で笑っているハイコがいる。ハイコがバーミヤンとさとしに気付き千鳥足で近寄ってくる。
 「お、さとし。きたね~、ハハハ」
ハイコが満面の笑顔で話しかける。
 「さっきはどうも。飲み過ぎじゃないですか」
さとしは低いトーンで呟く。
 「ハイコはこれで素面なんだよ」
バーミヤンがニヒルな笑顔を浮かべ言う。
 「そうだよ、私はウィスキー飲めないから!ハハハ」
ハイコは左手に持ったウィスキーをさとしの顔の前に差出し笑う。
 「え?じゃあなんで持ってんの?」
 「それはね~、そこにウィスキーがあったから~、ハハハ」
ハイコは登山家のようなセリフを吐く。
 「みんな、新入りのさとしが来たよ!」
そんなハイコに構わずバーミヤンが声を張り上げる。すると黒髪の女、土方のあんちゃん、ストールの女が同時にさとしの方を向く。三人に同時に見詰められたさとしは半歩後ずさる。数秒さとしを見つめた後三人は同時に声を出す。
 「よくきたね、おかえり!」
さとしは軽く会釈をする。すると三人がさとしに歩み寄る。
 「どうも私はテイジー、よろしく。テイジーでもテイジーちゃんでも好きに呼んで」
黒髪の女は大人びた真矢みきのような声で自己紹介をする。
 「どうも。オレは通称トビ―、よろしくね。楽しくなるね」
土方のあんちゃんはゆったりとした茨城なまりの口調でそう言うと、握手を求め手を差し出す。さとしは恐る恐る手を出し握手をする。
 「自分はシームレスだよ。さとしか、普通の名前だね、見た目も普通だね。佇まいも……普通だね」
ストールの女は自己紹介をすると、思ったことをそのまま口に出す。
 「普通って」
さとしは少しイラッとして呟く。
 「まあまあ、これがこのマンションのクルーだよ。みんないいやつだから遠慮しないでな、さとし」
バーミヤンはそう言い、さとしの肩をポンっと叩く。
 「はいはい、じゃあ七輪ピック開催するわよ!」
テイジーはそう言いながら手を二回叩く。
 「持ち場にもどる」
トビ―は静かに呟き、七輪へと戻る。

 「これで全部焼き上がったわよ!トビーお疲れさん」
テイジーは焼かれたサバが山盛りに積まれた大皿を、古びたソファの前の木でできた机の上に置く。
 「うまそうだな~」
バーミヤンがサバの匂いを嗅ぎながら呟く。
 「はい、ビール。ハイコはチューハイ、トビーもチューハイね」
シームレスは机のまわりに座ったハイコ、トビー、テイジー、バーミヤンにそれぞれ飲み物を渡す。
 「さとしはビール?」
シームレスはさとしに質問する。
 「あ、ビールで大丈夫っす」
さとしは恐縮した感じで答える。
 「ビールか、普通だね」
シームレスはそう言うとさとしにビールを手渡す。
 「だから普通って……」
さとしはまたもやイラッとし小さな声で漏らす。
 「はい、じゃあ後一人足りないけど、いつも通り先始めるよ!」
テイジーは音頭を取る。とその時屋上から建物内へつながる扉が開く。
 「ちょっと待ていっ!」
とそこにはスーツ姿のサラリーマン風の男が、歌舞伎のようなポーズを取って立っている。
 「ドン、おかえり!越後製菓!ハハハ」
ハイコがその男を見るなり大声で話かける。
 「いやー、間に合った。仲間が来る日に遅刻してたら『ドン』の名前が泣くぜ!」
スーツ姿のサラリーマン風の男は主役級のキメ顔でポーズを取っている。
 「もうすでに遅刻なんだよ!早くこっちきて座れ!」
テイジーは吐き捨てるように言う。
 「ごめん、テイジー!」
サラリーマン風の男はさっきまでのキメ顔とはうって変わって焦った表情で謝る。
 「はい、仕切り直して七輪ピック開会式だよ、飲み物持って……」
テイジーがそう言うと一同は飲み物を頭より高い位置に掲げる。
 「花見スタート!」
さとし以外全員が声を上げる。
 「えええ?今7月ですけど!!」
さとしは驚き声を出す。

 「ところでさっきの花見ってどういうことですか?」
さとしは不思議に思いドンに尋ねる。
 「花見?何言ってんの?今7月だよ?」
ドンは変な人を見るような目でさとしを見る。
 「でもさっき花見スタートって」
 「ああ、あーあー、もしかして『鼻見』のことだ!漢字が違うから分からなかったよ」
ドンは無駄に頷きながら言う。
 「ってのは冗談。『鼻見』ってのはお互い正面から向かい合って、目を見て話すのは恥ずかしいから、ちょっと下の鼻を見てでも直接語ろう!と言うこの場のことだよ。それをみんな大好きな花見とかけたって感じ」
ドンは落ち着いた低い渋い声で説明する。
 「なるほど。それで『鼻見』ですか」
さとしは分かったようなわからないような気分で一応納得する。そこへトビ―がさとしの横に座りビールを差し出す。
 「遠慮しないで飲んだらいいよ」
トビーはゆったりとした茨城なまりでそう言うとサバをつまむ。
 「てかサバすごい量ですね」
さとしは大皿いっぱいに積まれたサバの塩焼きを眺めながら呟く。とそこへハイコがウィスキーの角瓶を片手に現れる。
 「さとし、コマンサバ?」
ハイコがさとしに問いかける。
 「え?サバ?」
さとしは分けも分からず言葉を返す。
 「サバ!サバだよね、よかった、ハハハ!」
ハイコはさとしの言葉を聞くと満足げにそう言い、またフラフラと歩き出す。
 「フランス語だよ」
ドンは静かな声で言う。
 「『コマンサバ』はフランス語で『元気ですか』だから、さとしが元気でよかったってとこだな。元気があれば何でもできる、だからサバは山盛りがいいんだなぁ」
ドンは相田みつをの詩のような語り口で語る。
 「なんか皆さん変わってますね」
さとしは周りを見渡してため息交じりに言う。古びた茶色いソファでは、バーミヤンの頭からウィスキーをかけるしぐさをし、『ミドルネームはドリンクバー、ハハハ!』と叫んでいるハイコ、未だにビールとチューハイの缶でシャンパンタワーを作り続けるシームレス、サバをつまみに黙々と飲むテイジー、そんなテイジーにサバを焼き続けるトビー。
 「そうかな?みんないたって普通だよ」
ドンは不思議そうな顔でさとしの言葉に応える。
 「そういえばみんな名前変わってますよね?」
 「そうか、まだ名前紹介してなかったよね」
ドンはそう言うと立ち上がる。
 「みんな、さとしに名前紹介しよう」
ドンがそう言うと再び全員が木でできた机のまわりに集まる。
 「じゃあオレからいこうか」
一瞬沈黙があった後バーミヤンが口を開く。
 「オレはバーミヤン。バイト先がバーミヤンだからバーミヤン」
さとしは無言で頷く。
 「トビー。とびやってるからトビー」
トビーはゆったりとした茨城なまりで言う。
 「あたしはシームレスだよ。今はやりのウェブデザイナー。シームレスな時代にシームレスな性格、ってことで世の中の大体の人、50人はそう呼ぶよ」
シームレスは淡々とした口調で言う。
 「50人?」
さとしはツッコミを我慢する。
 「私はハイコだよ、お水だよ。テンション高いからハイコなの、ハハハ!」
ハイコは高い声で笑う。
 「私はテイジー。派遣でいつも定時上りが私のポリシー。だからテイジー」
さとしは腑に落ちたといった表情で頷く。
 「そしてオレがドン。このマンションで一番古株、それでドン。広告代理店ってやつで今は働いてる。苗字?小西じゃないよ加藤だよ」
ドンは聞かれてもないことを言う。
 「ありがとうございます、何かちゃんと意味あるんすね」
さとしは少し感心して言う。
 「さとしにもあだ名つけたいな~、さとしじゃなんだもんね」
バーミヤンが提案する。
 「いいね!考えてやるか」
テイジーが言う。
 「さとしは何が好き?」
トビーがゆったりとした茨城なまりで聞く。
 「えーっと、急に言われても難しいっすね」
さとしは考え込む。
 「じゃあさ、さとしは仕事何してんの?」
ドンが尋ねる。
 「仕事は普通の部品メーカーの営業です」
さとしは小さい声で答える。
 「さとしのマイブームは?ポケモン?ハハハ!」
ハイコが尋ねる。
 「なんすかね、うーんコレといってないっすね」
 「さとしは何が楽しくて生きてる?」
シームレスが突っ込んだ質問をする。
 「え?」
「まあまあ、これからさとしを知っていく上で考えよう」
困っているさとしを見てドンがそう言う。
 「そうだね!」
バーミヤンも同調する。
 「まあ当面はさとしで!」
ドンはそう言う。
 「このままだと知恵熱で頭燃えそう、ハハハ!」
「きっとさとしの親もこんな気持ちで当面は『さとし』にしたんだろうね、気持ち分かるわ~」
シームレスが大分失礼なことを言う。
 「ちょっと!」
さとしがシームレスに向かい大きめの声を出す。その瞬間バーミヤンがさとしの肩に手を回し、語りかける。
 「まあまあ、乾杯しようよ!」
 「はい、改めてさとしに乾杯!」
一同は手に持った缶をぶつけ合う。
 「さとしは引っ越したりしないよね?ハハハ」

第二章 訪問

「うーん……」
さとしは103号室のベッドの上で仰向けに寝ている。天井の電灯から垂れている紐がわずかに揺れている。
 「はっ!」
さとしは驚いたように上半身を起こし周囲を見回す。
 「あれ、自分の部屋か…」
さとしは放心状態で呟く。
 「屋上で飲んでたような…。夢?そういえばカメならぬ神に屋上に連れてかれて、煙が出て…」
さとしはそう呟きながら口元を触る。
 「じじいにはなってない」
そう呟くと再び体を倒し仰向けになる。
 「それにしても変わった人らだったな。テイジーは綺麗な人だけどかなり男勝りだし、逆にトビーはすげー柔らかい感じだし。ドンも落ち着いてて頼れる感じかな。シームレス…あいつはちょっといただけないわ」
さとしは屋上での出来事を思い出しつつ呟く。
 「ふっ、ふふ」
さとしは気色の悪い含み笑いをする。
 「思ったよりマンションライフ楽しめるかもな」
さとしは含み笑いをしたままそう呟く。
「ピンポーン」
とその時玄関のチャイムがなる。
 「さとしー!まだ寝てるのー?」
玄関の外からリカの声がかすかに聞こえる。
 「やべ!」
さとしはリカの声を聞き慌ててベッドから降りる。
 「痛っ!」
さとしはベッドから降りると同時に何かを踏みつける。とそこにはバーミヤンが横になっていて、さとしの足がバーミヤンの腹部を踏んでいる。
 「痛いな~」
バーミヤンが寝ぼけ眼で寝癖でぐちゃぐちゃになったパーマのかかった髪をかき上げる。
 「あー!すみません!」
さとしは驚きとっさに謝る。
 (踏み絵踏んじゃったよ!)
さとしは心の中で呟く。
 「いいよ、いいよ。踏まれることはよくあることだし」
バーミヤンは落ち着いた声でそう言うと立ち上がる。右手には恐竜のぬいぐるみを握っている。
 「すみません。でもなんでここにいるんですか?」
さとしは少し怖くなり尋ねる。
 「あれ?覚えてないの?」
 「はい…気がついたら寝てました」
さとしは小さい声で応える。
 「そっか、まあ大部飲んでたからな~。危うく『のんべえ』ってあだ名になるところだったんだよ」
バーミヤンは手に持っていた恐竜のぬいぐるみを棚の上に置く。
 「そうなんですか、なんかすみません」
さとしは謝る。
 「まあまあ、そんなもんだよ!ってかお客さんみたいだけど出なくていいの?」
バーミヤンは玄関の方を見つめながらそう言う。
 「あ!」
さとしは忘れていたといった表情で声を出す。

さとしは玄関のドアを開ける。
 「どんだけ待たせるのよ!」
リカがブスっとした表情で言う。
 「わりーわりー」
さとしは後頭部を掻きながら謝る。さとしの後ろからバーミヤンが顔を出す。
 「こんにちは。さとしの彼女?」
バーミヤンが尋ねる。
 「あ、そうです」
さとしはバーミヤンの存在を思い出し少し驚いた表情で応える。
 「誰?」
リカは訝しげな表情で尋ねる。
 「あ、隣に住んでるバーミヤンさんだよ」
さとしがリカにバーミヤンを紹介する。
 「バーミヤンだよ、よろしくね」
バーミヤンが静かな声でリカに自己紹介をする。
 「よろしくお願いします。リカです」
リカも自己紹介をする。
 「よろしくね、リカ」
バーミヤンは靴を履きながらリカの背中をポンと叩く。
 「じゃあ部屋戻るね」
バーミヤンはそう言うと玄関から出て行く。バーミヤンが出て行くとリカは103号室に入り、玄関のドアを閉める。
 「もう部屋に呼ぶくらい仲良くなったの?さとしが?」
リカは不思議そうにさとしに尋ねる。
 「話すと長いけど色々あったんだよ」
 「ふーん、まあ後で聞かせて」
リカはそう言うと靴を脱ぎ部屋に上がる。
 「何これ!昨日私が帰ってから何も変わってないじゃん!」
リカは少しイライラした口調で声を上げる。
 「しょうがなかったんだよ」
さとしは慌てて弁解しようとする。部屋の中は昨日の夜から何も変わっていない。ただ床にあったペンギン、くま、恐竜のぬいぐるみは棚の上に綺麗に並べられている。

 数日後。
 「あーもう23時か。社会人も楽じゃないな」
さとしは戸越駅からマンションへの夜道を独り言を呟きながら歩いている。
 「ここ一週間ずっとだな。毎日こんな遅くまで働くとか死にたくなるわ」
さとしは疲れ果てた顔を手で拭う。
 「ふう、やっとついた」
さとしはマンション玄関のオートロックを解除する。
 「お、さとし、お疲れ様」
さとしがマンションに入ろうとした時トビ―が後ろから話かけてくる。髪は濡れており首からはタオルを下げている。
 「トビーさん、ども」
さとしは低いトーンで応える。
 「ホントお疲れ様だね。近くにいい銭湯あるから今から行こうよ」
トビーは疲れ果てた顔のさとしを見てそう言う。
 「え?家で入るんで大丈夫です。それにトビーさん風呂行ってきたんじゃないんですか?」
さとしはトビーの恰好を見てそう応える。
 「え?これはちょっと走ってきたんだよ。体力勝負だからね」
トビーは落ち着いた茨城なまりで応える。
 「そうなんですか、元気ですね」
 「いいから風呂行こうよ、仕事のこととか聞くよ。一緒に風呂で色々洗い流そうよ」
トビーはそれでもさとしを誘う。
 「すみません、マジで大丈夫です。今度行きましょうよ」
さとしは尚も低いトーンで返す。
 「そっか。でも行ったらよかったって思うよ。ジャグジーとかサウナもあるよ」
トビーはジャグジー、サウナを強調しつつ更に誘う。
 「いやー今日はまだ家でも仕事やらないとなんで、すみません。今度絶対で」
さとしは疲れ切った顔で呟く。
 「そうなの?色々話したかったな。じゃあまた今度だね」
トビーはさとしを誘うのを諦め、二階へと続く階段を上がっていく。トビーが歩き去った後、シャンプーのいい香りがマンションエントランスに充満している。
 「風呂どんだけ好きなんだよ」
トビーが階段を昇って行ったことを確認し、さとしは呟く。
 「そんな暇じゃないんだよオレは。明日も朝から仕事だってのに。早く寝たいんだよ」
さとしはそう言うと大きくため息を付き103号室へと入る。

 更に数日後。さとしは103号室のキッチンで夕飯を作っている。
 「やきそばのソースあったかな?」
さとしは冷蔵庫を開ける。
 「ピンポーン」
その時チャイムがなる。さとしは冷蔵庫を閉め玄関へと向かう。
 「お疲れ、さとし。しょうゆ貸そうか?料理してる匂いがしたから持ってきたよ」
さとしが玄関を開けるとバーミヤンが丸大豆醤油を持って立っている。
 「あ、大丈夫っす。やきそば作ってるんで。あ、ソース持ってたりしないですか?」
 「ソース?ちょっとソースはないなぁ。しょうゆは?しょうゆでやきそばってのも悪くない」
バーミヤンはしょうゆをさとしの眼前に掲げる。
 「しょうゆはあるんで大丈夫です、わざわざありがとうございました」
さとしは低いトーンでそう言うと玄関のドアを閉める。
 「ソース持ってこいよ、使えないわ。なんでそんなしょうゆ貸したいんだあいつ、明らかにソース顔のくせに」
さとしはそう呟くとキッチンへと戻る。

 また数日後。
 「いい加減にしてよ!なんで電話もでないで女と飲んでるのよ!浮気よ、浮気!」
マルミエール戸越103号室のさとしの部屋で、リカが怒鳴っている。
 「だから会社の同期だって言ってんだよ!仕事の話とかしてたんだよ!」
さとしも顔を真っ赤にして怒鳴る。
 「あーそうですか、それでオールでカラオケですか。カラオケで話なんてできないでしょ!」
 「バカか?カラオケで歌わないパターンだってあるだろ!」
リカとさとしは永遠と怒鳴り合っている。
 「ピンポーン」
とその時チャイムが鳴る。
 「誰だよ!」
さとしは大きな声を出し立ち上がり、玄関へと向かう。
 「しょうゆ貸そうか?」
とそこにはバーミヤンが丸大豆醤油を持って立っている。
 「今それどころじゃないんすよ!」
 「そうなの?リカ来てるの?」
バーミヤンは部屋の中を覗こうとする。
 「しょうゆはいいですから帰ってください!」
さとしはバーミヤンに怒鳴る。
 「リカー、さとしはそんなやつじゃないと思うよ!」
バーミヤンは部屋の奥に向かって一言叫ぶ。
 「もういいから!バーミヤンさんには関係ないから!」
さとしはそう言うと玄関のドアを閉める。
 「あの人に何か言ったの?」
リカはさとしをにらみながら言う。
 「何も言ってねーよ、声が聞こえたんだろ!」
 「それだけでわざわざ来ないでしょ!あんたが私に何か言うように頼んだんでしょ。ホントせこい」
 「は?何も話してねえって言ってんだよ!」
二人はそれからも永遠と怒鳴り合う。

 また数日後。
 「あー疲れた、またこんな時間か」
さとしは仕事から戻りマンションのオートロックを解除し103号室に入ろうとする。
 「さとし!」
さとしが103号室の鍵を開けた瞬間テイジーが声をかける。
 「あ、テイジーさん。お疲れ様です」
スウェット姿のテイジーが二階の階段を降りたところに立っている。
 「あんた目の下のクマすごいよ。眠れてないの?」
テイジーがさとしの顔を見て言う。
 「ちょっと忙しくて」
さとしは低いトーンで応える。
 「私が部屋でギター弾いててうるさいんでしょ。それで眠れてないんでしょ?うるさいならうるさいってちゃんと言いにきなさい!」
テイジーはさとしにきつめに言う。
 「え?全くそんなことないですよ。ギターはちょっと聞こえる時もあるけど、気にならないし」
 「嘘つかなくていいから!眠れないなら別のとこで弾くから。はっきりと言いなさい!」
またもやテイジーは説教口調で言う。
 「ホント違いますって。色々あって疲れてるだけです」
さとしは面倒くさそうに応える。
 「じゃあ色々って何?言いなさい!言えないなら私のギターが原因ってことになるよ」
 「いや、まあ仕事とかプライベートとか色々ですよ。いいじゃないですか」
 「よくない!そのクマを見るたびに気になるから洗いざら言いなさい!」
テイジーは引き下がらない。
 「ホントにギターじゃないですよ、テイジーさんに言うようなことでもないっすから」
さとしはいよいよ面倒くさそうに言う。
 「ギターなのね。言えないってことはギターなのね」
テイジーはふてくされたように言う。
 「違いますよ!次の『鼻見』のときにでも言いますから。ギターじゃないんで、マジで!」
さとしは強めに言う。
 「そう、ならそういうことにしておく。でもちゃんとその話を聞くまで私はギターを弾かない」
テイジーはそう言うと二階へと階段を上がっていく。
 「なんだよ、意味不明だな。そもそも真上の部屋じゃないのに、そこまで聞こえないっつーの」
さとしはそう呟くと103号室へと入る。

 また別の日。さとしは電話をしながらマンションのエントランスを入る。
 「うん、分かったよ、今度帰ってその話は聞くから」
さとしは電話で母親と会話している。
 「ホントにあんたの父親はだめ。やっぱり妥協して結婚したのがいけなったのよ」
電話越しにさとしの母親が言う。
 「妥協って。なんでも妥協することが大事だって言ってたじゃん、昔から」
さとしは疲れた声で言う。
 「妥協することは大事よ。でも一番にならないものにはそれなりの理由があるってこと」
さとしの母親はイライラした声で言う。
 「もう分かったよ、今度聞くから」
さとしはいつも以上に低いトーンで話す。
 「バン」
103号室の前で電話をしているさとしの背中を誰かが叩く。
 「あれ、電話中?独り言?ハハハ!」
さとしが振り向くと、ハイコがテンション高く笑っている。
 「何?誰かと一緒?」
さとしの母親はハイコの笑い声が聞こえたのか質問する。
 「マンションの人だよ。もう親父のことは諦めろよ、そこも妥協したらいいじゃん」
さとしは言う。
 「妥協?ダチョウ?訴えてやる!ハハハ!」
ハイコは電話中のさとしに構わずしゃべる。
 「ちょ、静かにして!」
さとしはハイコに怒り気味に言う。
 「訴える?そうね、あんたの親父を訴えるわ!」
さとしの母親がハイコの発言を受け言う。
 「訴えるとかありえないから!」
さとしは言う。
 「いや、そうね、でも訴える。その手があった」
さとしの母親は電話を切る。
 「ちょっと、訴え……切れた」
さとしは必死で止めようとするが電話は切れている。
 「訴えるの?そりゃーないよー、さとし。ハハハ!」
ハイコがさとしの背中をバンバン叩く。
 「ちょっと!ややこしいことになったじゃないすか!」
さとしはハイコに向かって怒鳴る。
 「まあまあ、元気出して笑っていこ!ハハハ」
ハイコは笑い続けている。
 「もうだめだ……」
さとしは俯く。
 「何があったの?ポケモンが逃げちゃった?ちゃんと面倒みてないからだよ、ハハハ」
ハイコはおちゃらけて言う。
 「マジでポケモンとかそんな次元の話じゃないんだよ」
さとしはそう言うと、ハイコに構わず103号室へと入る。
 「さとし、さとしが今まで見つけたポケモンはレアなやつだよきっと、ハハハ」
部屋に入るさとしに向かい、ハイコが未だおちゃらけて言う。

 また別の日。103号室から酔っぱらったスーツ姿の男が三人出てくる。
 「んじゃしょーがねーから帰るよ、小せえな山本は!」
色黒で短髪の男はさとしに向かい言う。
 「すみません、ちょっと明日朝早くて」
さとしは恐縮して言う。
 「別に寝ないでいけよ、ノリわりーな絶対お前は出世しないな!」
もう一人の小太りの男もさとしに向かって言う。
 「先輩にはかないませんよ、ハハハ」
さとしは愛想笑いをする。
 「それじゃ家に帰るか、いえーい!」
一番年上と思われる白髪混じりの男が得意気につまらないおやじギャグを言う。
 「さすがマネージャー!ホント面白いっすね!」
色黒で短髪の男と小太りの男が持ち上げる。
 「それじゃ、山本もつまらん男にならないように夜遊びくらいしとけよ!」
おやじギャグを言い放った白髪交じりの男が、さとしに言う。
 「ハハハ、気を付けます」
さとしは再び愛想笑いをする。スーツ姿の男たちはマンションのエントランスから出ていく。さとしはその後ろ姿を眺める。
 「何あいつら?」
急にさとしの背後から声がする。さとしが振り返るとシームレスが立っている。
 「あ、シームレスさん。会社の先輩たちだよ」
 「ふーん、先輩ね。つまんない普通のやつらだね」
シームレスはボソッと言う。
 「いや会社では結構出世してる人たちだからすごいんだよ」
さとしは応える。
 「ふーん、あれで?何か、普通だね。さとしの方がまだ普通の中では上の普通だね」
シームレスは単調なトーンで言う。
 「いや全然すごいんだよ」
 「すごいんだ、ふーん。あれがさとしの理想なんだね」
 「理想とは言ってないし……」
さとしは小さい声で言う。
 「じゃあすごいってなんなんだろうね、ますごくないさとしには分からないか」
シームレスは淡々と言う。
 「関係ないでしょ、シームレスさんには」
さとしはムカッとした顔で言う。
 「関係ないかは私が決めることだよ、その発想、やっぱり普通だね」
シームレスはそう言うと階段を二階へと昇っていく。
 「……どいつもこいつも疲れるわ」
さとしは呟く。

 また数日経ったある日。さとしは103号室で横になりマンガを読んでいる。
 「明日からまた仕事か、めんどくせ」
さとしはマンガを閉じると呟く。
 「ピンポーン」
玄関のチャイムが鳴る。
 「またしょうゆか?」
さとしは玄関へと向かい、ドアを開ける。
 「やあ、さとし。休日の午後いかがお過ごしかな?」
ドンが本を片手に立っている。
 「どうしたんですか?」
さとしは尋ねる。
 「お、『今日から俺は!!』読んでたんだ。面白いよね」
ドンはさとしが手に持っているマンガを見て言う。
 「ちょっといい本あるから貸そうと思って!これ読んでおくといいよ」
ドンはハードカバーの本をさとしに手渡す。
 「あ、ありがとうございます。でも本苦手なんですよね」
 「目次だけでも読んでみてよ」
 「はあ、ありがとうございます」
 「じゃあまたいい本あれば差し入れに来るよ」
ドンはそう言うと立ち去る。さとしは玄関のドアを閉める。
 「難しそうな本だな。無理だな」
さとしはそう言うと玄関の靴箱の上に本を置く。本の背表紙には『問題解決プロフェッショナル』と書かれている。

 また別の日。さとしは家の中でゴロゴロしている。外からは日の光が差し込んでいる。
 「はあ、なんもやる気しない。めんどくさいことばっか」
さとしは寝ながら呟く。
 「ピンポーン」
玄関のチャイムが鳴る。さとしはチャイムに気が付くが出ようとしない。
 「ピンポーン」
またチャイムが鳴る。またもやさとしは出ようとしない。
 「ピンポーン」
再びチャイムが鳴る。
 「うるせーな」
さとしはそう呟くと玄関へ向かう。さとしがドアを開けるとドンとバーミヤンが立っている。
 「さとし、今からバーミヤンとビジネスセミナーに行くんだけど、一緒にどうかな。いい気分転換になるし、きっと得るものはあるよ」
ドンは清々しい顔でさとしを誘う。
 「あ、大丈夫です。ビジネスとか興味ないんで」
 「ビジネスマンなのに?『今日から俺は!!』読んでたのに?」
ドンは不思議そうにさとしに聞く。
 「マンガですよ?今日は家でゆっくりしたいんです」
 「まあまあ天気もいいし行こうよ。きっとさとしの仕事にも役に立つよ」
ドンは尚も誘う。
 「オレもよくわからずドンと前行ったんだけど、結構面白いよ。オレの仕事にも役に立ったし」
バーミヤンは微笑みながら言う。
 「大丈夫です。何かそんな気分になれなくて」
さとしは低いトーンで言う。
 「そんな時こそだよ、『今日からさとしは!』だよ」
ドンはそれでもさとしを誘おうとする。
 「ホント今日はすみません」
さとしはそう言うとドアを閉める。
 「平日仕事して休日までセミナーなんて行ってられっかよ。それにバイトでビジネスセミナーが役に立つわけないだろ」
そう呟くとさとしは再び横になる。
 「さとし大丈夫かな」
玄関の外でバーミヤンがドンに話かける。
 「結構元気ないよな最近。どうするか303で考えよう」
ドンがそう言うと、バーミヤンとドンは二階へと続く階段を上がっていく。

第三章 悩み

 ドンとバーミヤンは3階の一番奥にあるドンの部屋、303号室の前に着く。ドンが鍵を使わずにドアを開ける。1LDKの部屋のリビングにはガラスのテーブルと、黒革のソファが置かれている。ドンとバーミヤンは部屋に上がるとソファに座る。
 「よし、みんなを召集しよう!」
ドンは手を叩きながら言う。バーミヤンはすかさず携帯電話を取り出し、電話をかける。
 「もしもし」
 「どうしたの?今千羽鶴折ってるよ、ハハハ!」
 「今からドンの部屋で集会するけど来れる?」
 「鶴折ってるからあと826羽折ったら行くね、ハハハ!」
 「よろしく!」
バーミヤンは電話を切る。
 「ハイコOK!」
バーミヤンはドンに向かって親指を立てる。ドンも電話をかけている。
 「緊急集会、303、お前来る」
ドンは暗号のようなしゃべり方で電話している。電話から茨城なまりの声が聞こえる。
 「あたりまえ、今すぐ帰る」
ドンは電話を切る。
 「トビー確保!」
ドンはバーミヤンに向かって親指を立てる。バーミヤンはまた電話をかけている。
 「それじゃきつそうだね」
バーミヤンは残念そうな声を出す。
 「大丈夫、次の新幹線に乗って戻るよ。小田原土産は何がいい?」
 「マジ?まだ着いたばっかじゃないの?さすがシームレス!」
 「土産は何がいい?」
 「面白い話で!」
 「わかった」
バーミヤンは電話を切るとドンに向かって再び親指を立てる。ドンも再び電話している。
 「テイジー今どこ?」
 「楽器屋でバイオリン見てる」
 「バイオリン?ギターはやめたの?」
 「ギターは今弾けないから替わりを探してるの」
 「集会これる?」
 「さとしのこと?」
 「そう」
 「行く」
ドンは電話を切る。バーミヤンに向かいガッツポーズをする。とその時玄関のドアが開く。
 「疲れたー、紙も骨も折れた、ハハハ!」
ハイコが部屋に入ってくる。
 「鶴折るの早いな!」
バーミヤンが驚いた表情で言う。
 「826折った気分になったから満足したよ、ハハハ!」
ハイコは満面の笑みで笑う。
 「あれ?セミナーなうじゃないの?ハハハ」
ハイコがドンに向かって質問する。
 「行ってる場合じゃないからやめた!」
ドンが応える。とその時再び玄関のドアが開く。
 「来たよ!」
トビーが玄関から入ってくる。髪は濡れ、首からはタオルを下げている。
 「風呂中にすまんね!」
ドンはトビーに声をかける。
 「さとし最近疲れてたからオレも心配だったよ」
トビーは小さめの声で言う。
 「そう、今日の集会はさとしのことだよ」
ドンは軽く頷きながら言う。
 「シームレスは今小田原みたいだから、ちょっと時間かかるかも」
バーミヤンはハイコとトビ―に向かって話す。
 「じゃあそれまで千羽鶴みんなで折るか」
バーミヤンが提案する。
 「めんどくさいからいやだ!ハハハ」
ハイコが提案を拒否する。
 「そうだね、やめとくか!ってお前が折ってるって言ったのに!?」
バーミヤンがノリツッコミをする。
 「何?ハイコ千羽鶴折ってたの?」
話の分かっていないトビ―は質問する。
 「もう満足したからいいの!ハハハ」
 「あれ?誰かの見舞い用とかじゃないの?」
ドンも質問する。
 「友達が明日バーベキューするから晴れて欲しいって言うんだ、だから応援しようと思ったの。でも天気は人の力じゃどうにもならないでしょ、ハハハ!」
 「そうだな、ハイコの言うとおり。晴れて困る人もいるし、やめておこう」
トビ―が腕を組み頷きながら言う。
 「確かにね、174羽で想いは伝わるよ、数じゃない、数じゃ」
バーミヤンも納得したように言う。
「お前らめんどくさいだけじゃ……」
ドンは呟く。とその時、玄関のドアが開く。
 「はあはあ……」
テイジーが息を切らして立っている。
 「お、テイジー!シームレスがまだだからそんな急がなくてもよかったのに!」
ドンがテイジーに声をかける。
 「え?バイオリン諦めてきたのに……」
テイジーは息を切らしながら言う。
 「悪いね、先に言えばよかったかな。てかギターでいいじゃん!ギターやりなよ」
ドンが笑顔で言う。
 「だからさ、ギター今弾けないって言ったよね?あんた人の話ちゃんと聞いてんの?あんまふざけてると市中引き回すわよ!」
テイジーが怒鳴る。
 「市中はやめて、せめて町内で!」
ドンがふざけて応える。
 「このクソ男!」
テイジーがドンに飛び掛かる。
 「ごめん、テイジー、冗談だよ!予定切り上げて来てくれてありがとう!」
テイジーを抑えながらドンが笑顔で言う。
 「ったく!」
テイジーはドンに掴みかかるのをやめる。
 「仲良いなー」
バーミヤンがその光景を眺め笑顔で言う。
 「せっかくどっちが勝つか賭けようとしてたのに!ハハハ」
ハイコは残念そうに笑いながら言う。
 「タオル投げる準備はできてた」
トビーもリングサイドのセコンドのようなコメントを言う。
 「それはそうと、シームレスはいつ頃になるかな」
ドンはそう言うと壁に掛けられた時計を眺める。時計の針は午後2時を指している。

 時計の針が午後4時を指している。ドンはソファで本を読み、トビーは床で居眠り、テイジーは窓辺で鼻歌を歌い、バーミヤンとハイコは「あっち向いてホイ」をしている。
 「バーミヤンはホント下向くクセあるね、ハハハ!」
 「なんでだろう、何か高いところに掲げられてる気分になることが多くて、つい下向いちゃうんだよね」
バーミヤンが下を向く。パーマの掛かった髪が顔を覆い隠す。その時玄関のドアが開く。
 「ただいま」
シームレスが玄関から入ってくる。
 「おかえり!」
バーミヤンが下を向いたまま玄関の方を見る。
 「え?貞子?」
シームレスが驚き一歩後ずさる。
 「オレだよ、バーミヤンだよ」
 「なんだ、バーミヤンか」
シームレスは胸を撫で下ろす。
 「せっかくの小田原旅行なのに帰ってきてくれてありがとう!」
バーミヤンが笑顔で言う。
 「小田原なんて近いから、着いたらどうでもよくなったんだ」
シームレスは淡々と言う。
 「あ、お土産は?」
バーミヤンが目を光らせて聞く。
 「小田原の駅に着いたらね、『あなたの愚痴聞きます』って書いたプレートを持ってる老人がいてね、試しにひどいの言ってやろうってなってね、愚痴を言ってみたらね……」
シームレスが淡々と土産話を話す。
 「言ってみたら何?すごい格言とかくれたの?」
バーミヤンが興味津々で尋ねる。他のメンバーもみんな聞き耳を立てている。
 「そしたらね、『え?』って聞き返されてねどうやら耳が遠くて聞こえなかったみたいなの。だから聞こえないならもっと言ってやれって言おうとしたらね、そいつがニヤリとするわけ」
 「どういうこと?」
バーミヤンが尋ねる。
 「それがそいつの手口だったわけ。聞こえないふりして色々聞き出そうとする魂胆。嘘ついてまで人の愚痴を聞くなんて趣味悪いと思ってね、そのことについて愚痴を言ってやったんだ」
シームレスは淡々と語る。
 「で?そしたらその老人なんだって?」
バーミヤンが更に尋ねる。
 「そしたらね、また『え?』って聞き返してきた。ホントに聞こえなかったみたい。これが私からのお土産の面白い話」
シームレスは無表情で言う。
 「ハハ、結局聞こえなかったんだ。でもそれでも愚痴を言ってすっきりしたんなら、そいつのやってることには意味があるのかな」
バーミヤンが無理やり笑いながら、話をまとめようとする。
 「全然すっきりしなかった」
シームレスは低いトーンで言う。静寂が部屋を包む。
 「はいはい、お土産ありがとう!シームレスも来たし本題に入ろう!」
ドンが静寂を切り裂くように手を叩く。
 「え?」
ハイコがドンに聞き返す。
 「え?」
トビー、バーミヤン、テイジーも聞き返す。
 「え?」
シームレスも最後に聞き返す。
 「そうオレの愚痴はみんなが話をきいてくれないことなんです!って小田原の老人!もういいから!」
ドンがノリツッコミをする。
 「それはそうと、さとしはきっと仕事のことで落ち込んでるんだと思うんだ」
トビーが語る。
 「ホント忙しいみたいで、風呂も誘ってるんだけど中々行けなくて」
 「この前は会社の人かなんかが来てて、かなり気を使ってた。結構先輩風吹かされてたね」
シームレスが淡々と言う。
 「家族の問題もありそう。お母さんがお父さん訴えるって、ハハハ」
ハイコがいつもより低いトーンで言う。
 「リカとも仲良くやれてないんじゃないかな、よく言い争いしてるからなぁ」
バーミヤンが腕を組みながら言う。
 「夜もあまり眠れてなさそうね。いつもクマ作って眠そうにしてるし」
テイジーが立ったまま腰に手を当てて言う。
 「なるほど、さとしが元気ない原因はいくつかありそうだね。なんとか力になれないものかな」
ドンが言う。
 「そういえば今度の鼻見で眠れてない原因については話してくれるって言ってた」
テイジーが言う。
 「そうなんだ、じゃあまずは鼻見に来てもらうところからだね」
ドンが言う。
 「鼻見に来た時にどうやってさとしが言いやすい空気にするかも重要だね」
バーミヤンが言う。
 「鼻見ですごい楽しいこと仕掛けよう、さとしが来たくなるし、来たらもっと楽しみたいと思えるようなもの!」
テイジーが提案する。
 「それはいいね、来るモチベーションと来たときにさとしが言いやすい環境を作る!」
ドンが勢いのある声で言う。
 「でもさとしが楽しいと思えることって何かな」
トビーが言う。
 「そうだね、私たちさとしのことまだよく知らないね、なんか悲しいね」
シームレスがそう言うと俯く。
 「そういえばさとしの部屋に全然使ってなさそうだけどエレキギターあったな」
バーミヤンが言う。
 「音楽好きなのかな?」
ドンが呟く。
 「みんなでマルミエーズってバンドでも作ってファンタのCM出ちゃう?ハハハ!」
ハイコがハイテンションで言う。
 「バンド……」
テイジーが呟く。
 「そうか!みんなでバンド組んでさとしのポジションを空けておく。それを鼻見で披露してさとし待ちだよって言えばぐっとくるかな?」
ドンが言う。
 「じゃあ作る曲の歌詞もさとしを元気づける内容にしよう!」
バーミヤンが言う。
 「でもさ、何が原因かわからないから根本的な解決にはならないんじゃないかな」
シームレスが低いトーンで言う。
 「まずは元気になってもらいたい気持ちを伝えて、さとしの気をほぐそう!その後にもっとさとしのことを知っていく!」
バーミヤンが熱く語る。
 「それもそうね、いきなり言うほど私たちのこと好きだと思ってくれてないだろうし」
シームレスが納得して言う。
 「じゃあバンド構成を決めよう、みんな何か楽器できる?テイジーがギターできるのはもちろん知ってるけど」
ドンが言う。
 「私今はギター弾けない。だから鼻見の時はバイオリンで行かせて」
テイジーが言う。
 「わかった。ギター弾けるようになったら頼むね」
ドンがテイジーの気を察して言う。
 「じゃあ一緒にバイオリンだね!ハハハ」
ハイコが笑顔で言う。
 「ハイコバイオリンできるの?」
テイジーが驚いて言う。
 「できるよ、できると言うよりバイオリンは友達だもん、ハハハ」
ハイコは少しテンションを下げて言う。
 「じゃあオレベースやるよ」
ドンが言う。
 「わたしはキーボードだね」
シームレスが言う。
 「オレは何も楽器できないからボーカルで熱く歌わせて!」
バーミヤンが言う。
 「オレも楽器できない。どうしよう」
トビーが俯く。
 「ドラムだろ!」
全員が声を揃えて言う。
 「え?見た目だけじゃ……」
トビーは驚いた表情で言う。一同はトビーを見つめ続けている。
 「わかった」
トビーが受け入れる。
 「よし、これでうまいことバランスも取れた構成になったね!明日から毎日練習だ!」
ドンが手を挙げる。
 「おう!」
一同が威勢よく声を出し手を上に挙げる。
 「あのさ、もしさとしが全然音楽好きじゃなかったらどうする?」
トビーが言う。
 「何もしないよりはいいでしょ!」
ドンがそう言うと、トビーを含め全員が頷く。

 103号室でさとしが横になっている。横になりながら、部屋の隅の壁に立てかけられているエレキギターを見つめる。
 「……」
さとしは物憂げな表情をしている。
 「セミナーか、そういうのも行った方がいいのかな……」
さとしは低いトーンでそう呟く。
 「ホントオレはだめだ。中途半端だ。いつだってそうだった」
さとしは昔を思い出すように天井を見上げる。
 「高校受験、大学受験、恋愛、仕事……本気で何かに向かったことなんてねーのかもな」
しばらく俯くさとし。
 「でもそれが正解なんだ。妥協してでもしっかりと生活できてるしな。隣のロンゲみたいないい歳こいたフリーターでもねーし、風呂ばっか行ってる肉体バカでもない。いつも何も考えてないようなテンションで笑ってるだけのお水でもない。定時に仕事帰るようなつまんない人間でもない。ビジネスにばっか夢中な金の猛者でもない。デザイナーか何か知らないけど人にズケズケ言うようなやつでもない……」
さとしは再び俯くと貧乏ゆすりをする。
 「妥協して、堅実に生きる、それが一番なんだ」
さとしは一人頷く。とその時さとしの携帯電話が鳴る。
 「誰だよ」
携帯電話を開くさとし。
 「おふくろか……」
メールの文章を読むさとし。
 (お父さんのことを訴えるのは諦めました。まあ今まであなたにも言ってきた通り、ある程度で妥協することが重要かなって。何か求め過ぎるとその分嫌な思いをするの。だから期待もしないし諦める。それが人生よ。あんたも仕事頑張って、高望みはしないで、早くいい奥さん見つけなさい)
読み終えるとさとしは携帯電話を閉じる。
 「よかった。訴えるのやめたか」
さとしはそう呟き再び横になる。本棚の上に飾ってあるトロフィーを眺めるさとし。トロフィーには『市民大会第三位入賞』と書かれている。しばらく見つめるさとし。突然さとしは手元にあった携帯電話を取り出し、トロフィーに向かって投げつける。トロフィーからそれた携帯電話が、壁にぶつかり床に落ちる。
 「あーうぜぇ」
そう呟くとさとしは寝返りを打ち壁側を向いて眠りにつく。

第四章 音

 大井町の音楽スタジオにドン、バーミヤン、トビー、テイジー、ハイコがいる。
「よっしゃ、みんないい感じに仕上がってきたね!」
ドンが肩からベースを下げた状態で言う。
 「シームレス遅いね、もうすぐ0時だよ」
テイジーが言う。
 「あいつも忙しいからなぁ。でもそろそろ来るよ!」
バーミヤンが言う。
 「トビー明日も四時起きなんだからシームレス待たずに帰って寝たら?」
テイジーがバイオリンの弓でトビーの肩をつつきながら言う。
 「オレまだ全然うまくできないから、もう少しやる」
トビーがドラムスティックを眺めながら呟く。
 「トビーが持ってるとお箸にしか見えない、ドラムスティック、チョップスティック!ハハハ!」
ハイコがトビーの方を見つめ、手を叩いて笑う。
 「それにしてもハイコのバイオリンうまいな」
バーミヤンがボソッと言う。
 「……バイオリンって何だっけ?ハハハ」
ハイコはいつになく低いトーンで応える。
 「小さいころやってたの?」
テイジーが聞く。
 「……バイオリンは友達だよ、ハハハ」
ハイコは少し俯きながら笑う。バーミヤンとテイジーはハイコの様子を見て顔を見合わせる。その時スタジオのドアが開く。
 「遅れてごめん!」
シームレスが息を切らして入ってくる。
 「お疲れ!まだ後1時間借りてるから大丈夫!」
ドンが言う。
 「よし、それじゃ『マルミエーズ』本番近いから頑張ろう!」
ドンがベースの弦を弾き声を上げる。
 「いくか!」
バーミヤンが声を出す。テイジー、トビー、シームレスが頷く。ハイコも笑顔で床に置いていたバイオリンを抱き上げる。トビーがドラムスティックで拍子を取り始める。
 「1、2、1、2、3」
演奏を始める6人。スタジオから漏れた音が夜の静かな大井町の街に微かに響く。

 マルミエール戸越103号室。
「ごめんね、別れよう」
リカがカーペットに正座をしたまま、落ち着いた声で言う。
 「どういうこと?」
さとしはムスッとした表情でソファに座りながら言う。
 「だから別れてください」
リカは淡々と言う。
 「なんでだよ?理由聞かなきゃ無理だね」
 「……さとし最近なんかいつも何かにイライラしてるし、大体私のこと本当に好きかもわからないじゃん。だから」
リカは俯く。
 「なんだよそれ!相手が好きじゃなきゃ別れんの?」
さとしは怒鳴る。
 「ほら、またイライラしてる。一緒にいたくないの、そんなさとしと。もう限界」
 「お前そんなこと言って好きなやつでもできたんだろ!言い訳してオレのイライラしてるところとか使ってんじゃねーよ」
さとしは更に怒鳴る。
 「ホントだよ!そんなさとしが嫌なのはホント。いい人がいるのもホントだけど……」
リカはさとしと目を合わさず、斜め下を見たまま言う。
 「マジかよ。いいやついるのかよ……」
さとしは急に声のトーンを下げて言う。リカは黙って頷く。
 「は、ははは。笑えるわ。オレだってお前が一番好きで付き合ったわけじゃねーのに。オレも結局一番じゃねーとは。笑える、笑わしてくれるわ」
さとしは作り笑いをしながら言う。目には涙が浮かんでいる。
 「ひどい。一番じゃないのに付き合ったなんて言う必要あった?ホントもう無理。別れる、さようなら」
リカは立ち上がり大きな足音を立てて玄関へ向かう。玄関へと向かうリカに見向きもせず俯くさとし。
 「バタン!」
玄関のドアが強く閉められる音がする。
 「今は一番だけど……」
さとしはソファに座り俯いたまま呟く。103号室を静寂が包み、冷蔵庫のファンの音のみが響いている。

 「ペタ、ペタっ」
バーミヤンがロンTにスウェット、サンダル姿で、マルミエール戸越の階段を上がっている。屋上の入口に付くとドアを開ける。
 「お、ドラムセットなんとか入ったね!」
バーミヤンは威勢のいい声を出す。屋上にはドラムセット、バイオリン、ベースが置かれている。
 「結構大変だった」
トビーが頭に白いタオルを巻いた状態で汗をぬぐいながら言う。
 「野外ライブだね、もう10月だけどサマソニみたいだ!」
バーミヤンは満面の笑みを浮かべて言う。
 「ついに解散ライブだね、ハハハ!」
ハイコがドラムスティックをくるくる回しながら言う。
 「初ステージで解散かよ!」
バーミヤンがツッコむ。
 「本当の結成はこれからだ」
トビーがいつになく渋い声で言う。
 「だね!あれ?テイジーとシームレスは?」
バーミヤンが尋ねる。
 「今キーボード運んでる」
トビーが言う。
 「やべ、手伝わないとテイジーに怒られる!」
バーミヤンが焦った顔をして言う。
 「もう手遅れ」
テイジーの声がする。バーミヤンの後ろの階段へと繋がる扉から、顔を真っ赤にしてキーボードを抱えるテイジーが顔を出す。
 「あー重い」
テイジーが抱えている逆側でキーボードを持っているシームレスが呟く。
 「ごめん!寝てた!」
バーミヤンが後頭部を掻きながら言う。
 「あんたいいから今手伝え!」
テイジーがバーミヤンを睨む。
 「おう!」
バーミヤンはそう言うとキーボードを真ん中から持ち上げ、スタンドの上に置く。
 「よし、揃った」
テイジーが息を切らしながら言う。
 「まだ揃ってないよ、ハハハ!」
ハイコが言う。
 「そっか、さとしが来て初めて揃うんだもんね」
バーミヤンが言う。
 「このメンバーにプラスさとしでマルミエーズだもんね」
シームレスが言う。トビーとテイジーも頷く。
 「おーーーい、ちょっと待ったー!」
屋上の入口からドンが顔を出す。
 「オレを、オレを忘れてないか?リーダーのオレを!」
ドンは片手をドアに掛け、キメ顔で言う。バーミヤン、トビー、ハイコ、テイジー、シームレスはドンを見つめる。しばらく見つめると後ろに向き直し、全員楽器へと向かう。
 「やろうか!」
バーミヤンが声を出す。トビー、ハイコ、テイジー、シームレスは頷く。その光景を茫然と見つめるドン。
 「よし、やろうって、無視ですか!?」
ドンが大きい声でノリツッコミする。
 「いいから早くベース持ちなさい、リーダー!」
テイジーが強い口調でドンに言う。
 「はい!テイジー!」
ドンはそう言うとベースへと駆け寄る。
 「軽くリハいくよー!」
ドンがそう言うと、トビーがスティックを叩き、小さめの音で演奏が始まる。

 演奏が終わる。
 「よし、これで今日の本番頑張ろう!」
ドンがそれぞれのメンバーの顔を見て言う。全員頷く。
 「それじゃさとし呼びに行くよ!」
バーミヤンはそう言うと階段へと向かう。
 「私も行く!ハハハ!」
ハイコはそう言うとバイオリンの弓を屋上に置いてあるソファに投げ、バーミヤンの後を追う。
 「うまく行くかな」
二人の背中を見つめながらトビーが呟く。同じく二人の背中を見つめるドン、テイジー、シームレス。秋の穏やかな風が屋上に吹く。

 「ピンポーン」
バーミヤンが103号室のチャイムを鳴らす。
 「さとしー、鼻見だよ!」
バーミヤンが大きめの声を出す。
 「さとしが世の中で50番目に好きな鼻見だよー!ハハハ!」
ハイコがハイテンションで言う。

 103号室の中。ベッドで横になっているさとし。
 「うるせーな……」
寝返りを打つさとし。玄関の外から声が聞こえてくる。
 「さとし、いないの?」
バーミヤンの声が聞こえる。
 「さとし、いないなら返事して!ハハハ!」
ハイコが言う。
 「いなかったら返事できねーだろ」
さとしがボソっと言う。
 「あー!」
ハイコが甲高い声を出す。
 「え?聞こえたかな……」
さとしは上半身を起こし玄関の方を見る。
 「ほら、返事ないからやっぱりいるよ!ハハハ!」
 「ホントだ!返事ないからいるな!さとしの気を感じるし」
バーミヤンの嬉しそうな声が聞こえる。
 「なんだあいつら?バカなの?」
さとしは呟く。
 「さとしー、早く開けてよ!」
バーミヤンが甘えた声を出す。
 「さーとーしーくん。あーそーぼー!ハハハ!」
ハイコが子供のようにおちゃらけて言う。さとしはため息をつき、再び上半身をベッドに倒す。
 「さとし、泣いてるの?大丈夫か?」
バーミヤンが心配そうな声を出す。
 「さとし?さとし?まさかさとしに何かが?やばいよ、やばいって!」
ハイコが真面目な声を出す。
 「もしかして殺されてるのかも!さとしー!」
バーミヤンが焦った感じの声を出し、玄関のドアを強くたたく。
 「一分一秒を争うよ、蹴破ろう、それしかないよ!」
ハイコがまたもや真面目に言う。
 「やばい、ハイコそこの消火器とって!」
バーミヤンがまたもや焦った声を出す。
 「消火器よりこっちの斧の方がいいよ!」
ハイコが真面目な声で応える。
 「まずは消火器から試そう!」
バーミヤンが焦り続けた声で言う。
 「せーの……」
バーミヤンとハイコの声がした瞬間、さとしは玄関に走っていく。
 「ちょっと待て!ドアが壊れる!!」
さとしは大声を出す。
 「……」
ドアの外からは何も声がしない。
 「あれ?静まった……」
さとしは玄関の外の様子を見ようと、ドアスコープを覗く。
 「いないぞ」
玄関の外には誰も見えない。その瞬間バーミヤンが長髪を前に垂らした状態で、ドアスコープの中に下から這い上がるようにして映り込む。
 「うわ、出た!」
さとしは一歩後ずさる。
 「さとし、いたね!」
バーミヤンがドア越しに話かける。
 「脅かさないでくださいよ!それにうるさ過ぎます!近所迷惑ですよ!」
さとしは怒鳴る。
 「さとしー、近所は私らだから迷惑じゃないよ、近所が迷惑なのかも!ハハハ!」
ハイコが笑う。
 「だからこのマンションだけじゃなく近所迷惑でしょ!」
さとしは不機嫌そうな声を出す。
 「鼻見いこうよ!」
バーミヤンが言う。
 「そんな気分じゃないんで」
さとしはドアに向かって言う。
 「じゃあどんな気分?ハハ」
ハイコが優しい声で尋ねる。
 「だから行く気分じゃないんです!」
さとしは強めに言葉を発する。
 「だからどんな気分?」
ハイコがまた尋ねる。
 「どんなとかじゃなくて、そんな気分じゃないって言ってんでしょ!しつこいな!」
さとしが怒鳴る。
 「さとしー、どんな気分か分かってないならとりあえず行こうよ!ホントは行きたいけど行くのがちょっといやなだけかもよ!それでどちらかというと行く気分じゃないのかも!」
バーミヤンがささやくように言う。
 「そこは完全に行きたくない気分ですよ!」
さとしははっきりと言う。
 「そうかな?でもどんな気分かわからないってことはだよ、どんな気分か自分でも知りたいよね。一緒に考えるから行こうよ!」
バーミヤンが言う。
 「だから自分がどんな気分かなんて分かってるから行かないんですよ!」
さとしが言う。
 「その気分のままでいいの?私はやだ!ハハハ!」
ハイコが笑いながら真面目に言う。
 「オレはいいんですよ!この気分で!」
さとしは言う。
 「だーかーら、私はやだ!さとしがその気分でいるのが!ハハハ!」
ハイコが笑う。
 「オレもやだよ、さとしがその気分でいるのは、どの気分かは知らないけどやだね」
バーミヤンが言う。
 「どんだけ自己中なんすか!オレはいやじゃないんでほっといてください!」
そう言うとさとしは玄関からベッドへと戻る。
 「さとし、じゃあ気分は変えなくてもいいから行こうよ!」
バーミヤンが更に話かける。
 「気分そのまま、着の身着のまま行こう!ハハハ!」
ハイコが言う。
 「……」
さとしはベッドで横になりながら聞いている。
 「しつこっ」
さとしはそう言うと布団を頭から被る。

 マルミエール戸越屋上。トビーがドラムの椅子に座り、ドンとテイジーはソファに座り、シームレスはキーボードを弾いている。
 「遅いなぁ……」
ドンがボソっと言う。
 「そうね、もうすぐ一時間……」
テイジーが携帯電話の時計を見て言う。
 「トン」
トビーがスネアドラムにドラムスティックを軽く落とし音を出す。
 「……」
シームレスは無言で鍵盤を叩いている。

 103号室。さとしが布団を被っている。
 「それでさ、オレその客に言ったんだよ、やっぱり胡椒ってすごいですよねって」
バーミヤンが何やら出来事を話している。
 「すごい!これは胡椒に免じてさとしも行くしかないね!ハハハ!」
ハイコが笑う。布団を思いっきりめくるさとし。
 「なんなんだよ……もう一時間もよく諦めないな、あいつら……バカだな……」
さとしは上半身をベッドの上に起こし、困り果てた顔をする。
 「じゃあ次はうさぎどんの話をしよう!ハハハ!」
ハイコが笑いながら言う。
 「あ、中華丼の話もあるよ!」
バーミヤンが言う。さとしは玄関のドアまで歩いて行く。
 「『どん』違いだから!分かりましたよ、負けましたよ!」
さとしはそう言うと玄関の鍵を開けドアを開ける。
 「さとし!元気で良かった!」
バーミヤンはさとしを抱きしめる。
 「ちょ、ちょっと!」
さとしは嫌悪を表情に表す。
 「じゃあドンどんとこ行こ!ハハハ!」
ハイコも嬉しそうに笑う。
 「ドンドンってドラムじゃん!ネタバレするから!」
バーミヤンがハイコに小さい声で言う。
 「ドラム?」
さとしがバーミヤンに聞き返す。
 「え?あ、コラムのネタバレね。最近さっきの胡椒の話でコラムを書こうかなっと!」
バーミヤンは焦った表情で苦笑いしている。
 「とにかくレッツ鼻見!今日は十五夜じゃないけど月が出てないかもだけど屋上は気持ちいいよ!ハハハ!」
ハイコはそう言うとさとしの背中を押す。
 「歩きますから押さないでくださいよ」
さとしは困った表情で、ハイコとバーミヤンに背中を押されながら二階へと繋がる階段を上がっていく。

 マルミエール戸越屋上。ドン、テイジー、トビー、シームレスが依然として黙ったまま待っている。とその時、屋上のドアが開く。ドアが開く音に反応し、ドン、テイジー、トビー、シームレスは一斉にドアの方を見る。ドアからはさとしの姿。その後ろからさとしの背中を押しているバーミヤンとハイコの姿が現れる。
 「だから押さないでくださいって!!」
さとしは嫌そうな顔でバーミヤン、ハイコの方を振り返りながら言う。
 「お!さとし来たね!」
ドンがソファから立ち上がり、満面の笑顔で声を掛ける。シームレスがキーボードを鳴らし、その後トビーがドラムを軽く叩く。
 「あれ?バンドやるんすか?」
さとしがその音と屋上の様子を見回し呟く。
 「そうだよ!皆でマルミエーズってバンドを始めようと思ってね!」
ドンが言う。
 「はあ、もの好きですね」
さとしは軽く頷きながら呟く。
 「とにかく一曲聴いてみる?」
ドンが言う。バーミヤンとハイコはさとしの後ろからバンドセットへと小走りで移動する。
 「はあ、聞いてみたいです」
さとしは低いトーンで言う。
 「それじゃ早速行こうか!」
ドンが振り返りトビーを見つめ頷く。トビーがスティックを叩き始める。
 「1、2、1、2……」
 「ちょっと待って!」
トビーがドラムを叩こうとした瞬間、テイジーが大きな声を出す。
 「その前に、さとしが眠れてない理由を教えて」
テイジーは言う。
 「いやいや、そんな大した話じゃないんでいいじゃないっすか」
さとしは苦笑いをしながら言う。
 「さとし、テイジーはさとしと約束したからギター弾いてないよ、ギター弾かせてあげてよ」
バーミヤンがセンターマイク越しに声を発する。
 「え?」
さとしはテイジーの持つバイオリンを見る。
 「マジでギター弾いてないんですか?あれから?」
さとしは驚いた顔でテイジーの方を見つめて言う。テイジーは黙って頷く。
 「……」
黙り込むさとし。
 「……分かりましたよ、話しますよ」
さとしは斜め下を見たまま言う。さとしの言葉にみんな黙って頷く。
 「正直みんな大したことないと思うと思いますよ、きっと」
さとしは言う。
 「さとしにとっては大したことなんでしょ?だから眠れてないんでしょ?」
テイジーが言う。
 「大したことないかは本人が決めることだよ、さとしの気持ちの話だからね」
シームレスがさとしを見つめて言う。特に反応せずに斜め下の地面を見つめているさとし。
 「オレ、何ていうか、人生いつも諦めてきたんです。むしろそういう星の元に生まれたって言うか……」
全員がさとしを見つめている。
 「正直小さいころから本当に欲しいものがあってもそれに近いもので我慢して諦めてきたんです。ガキの頃から駄菓子屋で本当は300円の金券の当たる50円のチョコが食べたくても、当たらなかった時が怖くて、50円の金券の当たる10円のスナックで我慢してました。高校受験も本当は遠いけど勉強のできる高校に行きたかったのに、家から近い学力的にも安全圏の高校に入りました。大学も同じでそうやって一番望んだもを得ることなくやってきたんです。結局今の仕事も行きたいところに行けなくてなんとなく始めた仕事だし……」
さとしは淡々と話す。
 「でもさとしはそんな生き方がいいんでしょ、ならそのやり方でいいんじゃない?その安定した普通のやり方で」
シームレスが言う。
 「……そのはずなんですよ。それが正しいと思って、親にもそう言われて生きていたのに何かイライラするんですよ、何でですか?教えてくださいよ!」
さとしは語気を強め、顔を正面に上げる。
 「じゃあそれは間違ってるんじゃない?」
ドンが言う。
 「そんなはずはないです、間違ってはない!」
さとしはドンの言葉に被せるように即座に語気を強めたまま言う。
 「さとし、オレは思うよ、やっぱり欲しいものは絶対に諦めないで手に入れようよ!」
バーミヤンが強い口調で言う。
 「そんな簡単じゃないでしょ!」
さとしが返す。
 「でもやろうよ!簡単じゃなくてもやろうよ!」
テイジーが言う。
 「そうだよ、やってみたら以外と難しくないかもよ!ハハハ」
ハイコが笑いながら言う。
 「じゃあさ、あんたらは人に言うほどやってきたのかよ?簡単に言わないでください!人の気も知らないで!」
さとしは顔を真っ赤にして怒鳴る。
 「知らないよ!だからみんな知りたいし、訊いてるんだよ!」
バーミヤンも語気を強めて言う。
 「それを知って何の意味があるんですか!?何か変わるんですか!?」
さとしが怒鳴る。
 「変わるよ!」
トビーがいつになく大きな声で言う。
 「そんな簡単じゃないでしょ、人間は!」
さとしは更に怒鳴る。
 「そうかな、簡単でも難しくもないんじゃないかな……」
ドンが言う。
 「……」
さとしは黙り込むとそのまま振り返り、屋上の入口のドアへと向かう。そしてドアを出ると思いっきり屋上のドアを閉める。ドアの閉まる音が屋上に響きわたる。面々は暗い表情を浮かべ、誰も言葉を発しない。トビーがスネアドラムに両肘を付き頭を抱える。スネアドラムの音だけが寂しく響く。
 「またあの時みたいになっちゃうのかな……」
テイジーが弱々しい声で呟く。

 103号室。顔を真っ赤にしたさとしが玄関に入りドアを閉める。そのままドシドシと足音を立て部屋に入り、ベッドにうつ伏せに倒れ込む。棚の上に置かれたペンギン、くま、恐竜のぬいぐるみの内、恐竜のぬいぐるみがさとしの歩く振動で床に落ち、転がる。

 103号室。昼なのにカーテンを閉め切っている部屋。外からは爽やかな鳥の囀りが聞こえる。さとしがベッドに座り携帯電話で文字を打込んでいる。携帯電話の画面には宛先に「鈴木理香」と書かれたメール作成画面。
 (返事くらいして欲しい)
携帯電話に打込んだ文字をじっと見つめるさとし。大きく深呼吸をするとメールを送信する。さとしは携帯電話をベッドに置くと仰向けに横になる。仰向けになったまま棚に置かれたペンギンとくまのぬいぐるみを眺めるさとし。恐竜のぬいぐるみは床に転がったままの状態。
 「そういえばあれから一週間か、マンションのやつら会ってないな……」
さとしはそう呟くとボーっと天井を見つめる。

 103号室の2階上の303号室。ドン、バーミヤン、ハイコ、トビー、テイジー、シームレスが集まっている。
 「もう一週間だね」
テイジーが言う。
 「そうだな。こうしてる間にもさとしはもっと落ち込んでるんだろうな」
バーミヤンがボソっと言う。
 「でもまたあの時みたいになったら……」
テイジーが小さめの声で言う。
 「そうだね、二度とやだね」
シームレスもテイジーの顔を見て言う。
 「難しい……」
トビーが呟く。
 「笑えない……ハハハ」
ハイコが作り笑いを浮かべ呟く。
 「ソボク……」
ドンがそう呟いた瞬間、全員がドンの顔を見つめる。

 2年前の夏、マルミエール戸越。屋上で鼻見が開かれている。
 「ソボクが来てもう半年だね、正確には六か月だね!ハハハ」
ハイコが笑い、ソボクと呼ばれる坊主頭で長身の男の背中を叩く。
 「そうだね」
ソボクと呼ばれる男は低いトーンで呟く。
 「ソボクは大人しいからね、言いたいことがあるなら何でも言ってよ!」
バーミヤンが言う。
 「大丈夫」
ソボクと呼ばれる男は一言だけ呟く。
 「ソボクとオレらは仲間だからね、ただ口数少ないだけで何でも言ってくれてるよね」
ドンが笑顔でそう言う。
 「ホントに?」
トビーがソボクの浮かない表情を見て聞く。
 「う、うん」
小さく頷くソボク。
 「思ってることありそうだね、言えばいいのに」
シームレスが淡々と言う。
 「何?」
テイジーがソボクに対して質問する。
 「……正直」
ソボクと呼ばれる男は呟く。
 「何?言ってみて!」
テイジーが聞く。
 「正直、オレあんたらの仲良しごっこみてると反吐が出そうになるんだよな。人の気も知らないでいいことしてるかのようにオレのプライベート詮索してきてよ。オレ友達なんていらないんだよ、むしろいない方が楽なんだよ。だからお前ら独りよがりなだけで結局オレのこと何も知らないんだよ。ほら今だって驚いた顔してんだろ」
ソボクと呼ばれる男は淡々と低い声で話す。ドン、バーミヤン、ハイコ、トビー、テイジー、シームレスは茫然と聞いている。
「だから言うよ、表面上だけの『仲良しごっこ』なんだよ」
ソボクと呼ばれる男は続ける。
 「そんなことないよ!」
バーミヤンが言う。
 「それがそうなんだよね」
ソボクと呼ばれる男は不適に笑う。
 「お前、そんなこと思ってるなら早く言ってくれれば」
トビーが言う。
 「あのな、オレはお前らを仲間だと思ってないから言わないだけだよ。理解しろよ」
ソボクは嘲笑を浮かべる。
 「ひどい……」
テイジーが呟く。
 「ほらな。ちょっと不都合なこと言われたらそうやって思うだろ。オレなんてもう仲間じゃないってホントは言いたいんだろ。安心しろよ、オレ元々仲間じゃねーから」
ソボクと呼ばれる男は尚も淡々と言う。
 「……ハハハ」
ハイコが力なく笑う。
「ごめんな、ソボク。オレらお前のことちゃんと分かってなかった」
ドンが呟く。
 「これからもっと知っていくよ!仲間だと思ってもらえるように!」
バーミヤンも大きめの声で言う。
 「遅い遅い。それでは皆さんオレは明日引っ越しますんで、さようなら」
ソボクと呼ばれる男はそう言うと手を頭の上で大きく振り、ドアへと向かって歩き出す。
 「ソボク!待って!逃げるの?」
シームレスが怒鳴る。
 「引っ越しの準備してることも知らなかっただろ?」
ソボクは面々を見回す。皆茫然と立ち尽くしている。
「じゃあね」
そう言うとソボクと呼ばれる男は屋上のドアを出ていく。

 現在のマルミエール戸越303号室。ドン、バーミヤン、ハイコ、トビー、テイジー、シームレスが浮かない表情を浮かべ座っている。
 「ソボク……ごめん」
ドンが呟く。
 「同じ想いをさせたくない……さとしには」
ドンが小さい声で言う。
 「そうだね……」
バーミヤンも頷く。
 「でもどうしたら……」
テイジーが呟く。
 「悲しい鼻見はもういや……ハハ」
ハイコが呟く。
 「うーん……」
頭を抱えるトビー。
 「怖いね……正直」
シームレスも呟く。303号室を静寂が包む。外からは爽やかな鳥の囀りが聞こえている。

 それから一週間後の103号室。外は小雨が降っている。昼なのに薄暗い部屋の中で、ベッドに座り携帯電話に文字を打込むさとし。携帯電話の画面には宛先に「鈴木理香」と書かれたメール作成画面。
 (オレが悪かった。もう一度会って話がしたい。お願いします)
文字を打込み終わるとすぐに送信する。さとしは携帯電話を閉じる。と次の瞬間携帯電話の着信音が鳴る。慌てて携帯電話を開くさとし。
 (MAILER-DAEMON)
画面には宛先不明の送信不可メッセージが表示されている。
 「……マジか」
ボソっと呟くさとし。携帯電話がさとしの手から床に滑り落ちる。
 「もう二週間、マンションのやつらも全然話に来ないな……」
その時玄関のドアの外から声が聞こえてくる。
 「……ハハハ」
 「もう少しだ」
ハイコの笑い声とバーミヤンの声が聞こえる。その声を聞くと、さとしは咄嗟に玄関の方へと走って行く。玄関のドアスコープから外を覗くさとし。103号室に見向きもせず、2階へと繋がる階段を上がって行くコンビニの袋を持ったバーミヤンとハイコの姿が見える。しばらくドアスコープ越しに二人の様子を見つめるさとし。
 「……諦められたのかな、オレ」
そう呟くと玄関に座り込み俯くさとし。
「結局いいこと言ったってあいつらだって諦めてんじゃん。人間なんてオレも世の中のやつも同じで、変わることなんてできないんだよ。結局諦めて生きてんだよ」
俯いていた顔を上げ、虚ろな目で斜め上を見るさとし。玄関の棚の上に放置されていた『問題解決プロフェッショナル』と背表紙に書かれた本が目に入る。さとしは無言で本を掴み表紙をしばらく見つめる。無言のまま表紙をめくり目次を眺める。目次のあるセンテンスが目に入り、一点を見つめるさとし。『第一章ゼロベース思考』と書かれた章の第一節の辺りを見つめている。
「自分の狭い枠の中で否定に走らない……」
さとしはそのセンテンスを声に出し呟く。

 303号室の前の廊下。バーミヤンとハイコがコンビニの袋を持って歩いている。303号室の前に着くと傘をドアの横に立てかけ、ドアを開く。
 薄暗い303号室。ソファには眉間を抑えた状態で座っているドンと腰を深く落とした状態で座っているトビー。ソファの前のガラステーブルに突っ伏しているシームレスとホワイトボードマーカーを持ったまま窓辺で項垂れているテイジー。そしてソファの正面には文字や図形で埋め尽くされたホワイトボードがあり、丸められたメモ書きが床に散乱している。皆一様に憔悴した表情で玄関の方を見つめる。
 「お疲れだね、朝から何も食べてないから腹ごしらえしよう」
バーミヤンが笑顔を浮かべコンビニの袋からおにぎりを取り出す。
 「甘いのもあるよ!ハハハ」
そう言いながらハイコがコンビニの袋から柿の種を取り出す。
 「ありがとう」
力なくドンが言葉を発する。

 薄暗い303号室でおにぎりやサンドイッチを黙って食べるドン、バーミヤン、ハイコ、トビー、テイジー、シームレス。
 「いくら考えても同じ結論にしかならない」
ドンが静寂を破って言う。
 「そうね、結局答えのないことをいくら考えても同じなのかも」
テイジーが疲れた声で言う。
 「それなら思った通りに行くべきだね。思わない方で行くってこと自体おかしいけど」
シームレスも言う。
 「やっぱり遠慮っていう諦めをしたくない」
トビーも力強い声で言う。
 「楽しくないと思われるかもな事も笑うためには必要、ハハ」
ハイコも真剣な眼差しで呟く。
 「よっしゃ、結局知恵熱いくら出したってさとしには伝わらない!ホントのさとしを知ることを諦めないってことだね!」
バーミヤンが立ち上がる。
 「そう!それと自分たちのことをさとしに知ってもらうことも大事!」
ドンも立ち上がる。
 「マルミエーズになるために!」
テイジーも立ち上がる。
 「見せる」
トビーも立ち上がる。
 「しつこいの大好き、ハハハ!」
ハイコも立ち上がる。
 「絶対に逃がさない!」
シームレスも立ち上がる。小雨が止み、薄暗かった部屋に日差しが差し込む。

第五章 再開

 翌日、さとしが俯き気味で駅からマンションへの夜道を歩いている。
 「正直、毎日同じ繰り返し、つまんないわ……」
ボソッと呟くさとし。マンションの前に着きオートロックの鍵を開ける。エントランスは明りが煌々と点いているが誰もいない。立ち止まるさとし。
 「はぁ……」
溜息をつくと覇気なく背中を丸めた状態で103号室の中へと入っていく。

 103号室。さとしはベッドに座り「問題解決プロフェッショナル」と書かれた本の表紙を眺めている。
 「問題解決……何が問題かもわかんないわ」
そう呟きながら本を開き読み始めるさとし。
 しばらく経ち、さとしは本を三分の一ほど読み進めている。するとマンションのドアの外から声が聞こえる。
 「……ハハハ」
ハイコの高い笑い声が聞こえる。さとしは玄関の方を見つめる。
 「……」
無言で見つめながら一瞬立ち上がろうとするが再びベッドに座り直すさとし。と次の瞬間、
 「ドンドンドン!」
ドアを鈍器のようなもので叩く音がする。さとしは音にビックリしつつ玄関の方を見つめる。
 「さーとーしーくん、生きてますか?ハハハ」
ハイコの無邪気な声が聞こえる。
 「生きてなかったらオレ、悲しむから!悲しむからな、さとし!」
バーミヤンの声が聞こえてくる。
 「うるせーな」
さとしは小さい声で呟く。言葉とは裏腹にさとしの口角は上がっている。
 「さとし、生きてるの?死んでるの?え?死んでるの?そんな、死んでるの?ハハハ」
ハイコが真面目に語りかけた後、大きな声で笑う。
 「死んでるわけないよ!でも、もしそうならそう言ってくれ!さとし!」
バーミヤンも真剣な声で言う。ゆっくりと玄関へ向かうさとし。
 「ハイ、死んでます!ってもしそうなら言えないわ!」
そうツッコみながらさとしは玄関のドアを開ける。玄関を開けるとハイコとバーミヤンが満面の笑顔で立っている。
 「なんですか、こんな夜中に」
さとしは低いトーンで言う。
 「最近話してなかったから心細くなっちゃってさ!」
バーミヤンが言う。
 「そうそう、私も悲しくて泣いてるよ、ハハハ」
ハイコは満面の笑顔で笑う。
 「明らかに泣いてないでしょ!とにかく夜遅いんで用件があるなら早く言ってください」
さとしは少しイラッとした表情で言う。
 「用件は、えーっと……」
バーミヤンが困った表情でハイコを見つめる。
 「あのね、最近知ったんだけどね、ブロッコリーってね、木みたいなのにね、木じゃないんだって!ハハハ」
 「え?そうなの木だと思ってた!」
バーミヤンが驚いた表情で言う。
 「木なわけないでしょ!」
さとしが言う。
 「でもブロッコリーの木が木じゃないって知ってから、さとしが気が気じゃなくなって!ハハハ」
 「うまいこと言わなくていいですから!」
さとしがツッコむ。
 「でもさ、世界不思議発見の時の日立のCMの木ってブロッコリーだと思ってた。絶対ブロッコリーだという自信があったのに。スーパーさとしくん出すくらいの!」
バーミヤンは先ほどの驚いた表情のまま言う。
 「えーっと、ツッコみにくいな!ブロッコリーは木じゃないし、スーパーひとしくんですから!!」
さとしは大きな声でツッコむ。
 「少しは元気出た?」
そんなさとしを見て尋ねるバーミヤン。
 「さとしのこの前言ってたイライラは、きっとスーパーひとしくんを今まで出せなかったことじゃないかな、ハハハ」
ハイコが言う。
 「オレもさ、正直スーパーひとしくん出せないやつなんだ」
バーミヤンが低いトーンで呟く。とその瞬間、
 「あー!出勤の時間忘れてた!ハハハ」
突然ハイコが大声を出す。いきなりの大声に驚いた表情のさとしとバーミヤン。
 「びっくりしたー。オレたちのことは気にしないで仕事行って!」
バーミヤンがそう言うと既にハイコはエントランスのドアから出ている。
「ってもう出てるし!そんなハイコに不思議発見!」
そう言いつつハイコに大きく手を振るバーミヤン。
 「なんなんすかね。もう夜遅いんでまたにしてもらっていいですか?」
さとしは呟く。バーミヤンは振り返りさとしを見る。
 「正直ハイコさんみたいに脳天気じゃないし、明日も仕事なんですよ。ホントあんなテンションでいつもいられるなんて幸せでいいっすね」
さとしは吐き捨てるように言う。
 「そうかな?ハイコのテンションでいつもいたら疲れると思うな。頑張ってるよ、あいつは」
バーミヤンが言う。
 「そうですか?いつも何も考えず楽しんでるようにしか見えませんけど」
さとしは言う。
 「ハイコはああやって自分に嘘ついて生きてきたんだよ、本当の自分を守るために自分に嘘をついて」
バーミヤンは言う。
 「どういうことですか?」
さとしは首を傾げる。
 「人間ってさ、笑うと楽しいと錯覚するんだって」
バーミヤンが言う。
 「何か聞いたことあるかも。じゃあハイコさんどんだけ楽しみたいんですか!」
さとしが言う。
 「楽しいと思わなきゃ生きてこれなかったんだと思うよ、ハイコは」
バーミヤンが神妙な面持ちで言う。
 「だからあいつが笑うのは、悲しいことがあったからなんだ」
バーミヤンはそう言うと微笑む。
 「……」
さとしは黙り込む。
 「っとこれ以上話したらハイコに鈍器で殴られそうだから後は本人に聞いて」
バーミヤンは黙ったままのさとしを見て再びほほ笑む。
 「……スーパーひとしくん出せないって、何ですか?」
さとしは徐に口を開く。
 「え?何だっけ?」
バーミヤンは呆気らかんとした表情で聞き返す。
 「いやさっきスーパーひとしくん出せないって言ってましたよね?ひとしくん……」
さとしはそう言いながらバーミヤンを見るがバーミヤンは相変わらず呆気らかんとしている。
 「ひと……さとしくん」
さとしは小声で言い直す。
 「あー!スーパーさとしくんが出せないって言った話ね!」
バーミヤンは突然思い出したように手を叩く。
 「さっき自分でひとしくんって言ってたくせに……」
さとしはバーミヤンに聞こえないくらいの小声で言う。
 「何?」
バーミヤンが聞き返す。
 「なんでもないです」
 「でさ、さっきスーパーひとしくんが出せないって言った話なんだけど……」
バーミヤンは話し始める。
 「あ!今ひとしくんって!」
さとしは咄嗟にバーミヤンを指さし大声で言う。
 「え?言ってない!」
バーミヤンは否定する。
 「言いました!」
さとしはしたり顔で言う。
 「言ってないって!」
 「言いましたよ」
 「言ってない」
 「言った!」
二人は問答を繰り返す。
 「じゃあスーパーひとしくん出します!」
さとしは自信満々に言う。
 「クソ!確かにひとしくんって言ちゃったよ!でも……スーパーひとしくん出せたね、さとし!」
バーミヤンは悔しがりながらも嬉しそうな表情をする。しばらく微笑んだ後、バーミヤンは急に真剣な表情でさとしを見る。
 「って言うかね、オレ自分の夢追いかけてこれまでやってきたんだけどね、サラリーマンとかやらずに絶対叶えるんだってやってきたんだけどね、スーパーひとしくんを出したことないんだよね」
バーミヤンは語る。
 「既にそれをやろうという時点で出してるじゃないですか!」
さとしは言う。
 「そうでもないんだよ、結局いつも不安があるし、完全に否定されることにビビッてるんだ」
バーミヤンは静かに語る。
 「そうなんですか?バーミヤンさんの夢って何ですか?」
さとしは尋ねる。
 「ミュージシャン」
バーミヤンは言う。
 「18で決意して、気付けば26歳になってさ、バイトしながらミュージシャン目指してるんだ、ずっと」
バーミヤンは低いトーンで語る。
 「一番やりたいことを求め続けられるなんてすごいと思いますけど」
さとしは言う。
 「でもね、どっかで全力で行かないようにしてる自分がいるんんだ。夢が夢で終わるのを恐れてる」
バーミヤンは言う。
 「……」
さとしは黙って聞いている。
 「だからね、逆にさとしとかみんなには全力で行って欲しいと思うんだ。ホントは自分に一番言いたいことなんだけどね」
バーミヤンはそう言うと、大きく伸びをする。
 「そうなんですね……」
さとしは一言呟く。
 「あー、ごめんね、どうでもいい話に付き合わせて。寝るわ!」
そう言うとバーミヤンはさとしに向かって軽く手を挙げる。
 「あ、おやすみなさい」
さとしは隣の部屋へ向かうバーミヤンの背中に一言声を掛ける。バーミヤンが102号室に入っていくのをボーっと見つめるさとし。
 「スーパーひとしくん……」
そう呟き、しばらく103号室の玄関のドアを開けたまま立ち尽くすさとし。

 翌日。スーツ姿で駅からマンションへの夜道を歩いているさとし。
 「はぁ……」
溜息を付き携帯電話の画面を開く。迷惑メールが2件着信している。
 「ちっ!うざいな!」
さとしは舌打ちをし大きめの声で独り言を言う。その瞬間、さとしの背後から声がする。
 「おい、てめえ誰がうぜーんだ?」
さとしは振り返る。振り返るとそこには肩に入れ墨を入れた色黒の男が立っている。
 「え?」
さとしは驚いた顔をする。
 「オレが鼻歌歌ってたのが気に入らねーのか?ケンカ売ってんのかこのボケ!」
そう言うとさとしの胸ぐらを掴み上げる色黒の男。そしてさとしの腹部を殴打する。鈍い音と共にさとしはうずくまる。
 「うう……」
さとしは痛みに悶える。
 「マジ坊がなめてんじゃねーぞ!」
色黒の男はさとしの脇腹を尚も蹴り上げる。
 「タッタッタッタ」
その時夜道を誰かが全速力で走ってくる足音が聞こえる。
 「おめーふざけたことしてんじゃねぇぞ!」
茨城訛りの怒鳴り声と共にトビーが色黒の男に背後から飛び蹴りを食らわす。男は振り向いた瞬間に蹴り飛ばされる。
 「な、なんだてめえ!」
色黒の男はトビーを睨みつける。トビーはまたも全速力で色黒の男めがけて拳を振り下ろす。
 「そりゃこっちのセリフだっぺよ!オレんダチになめたことしてんじゃねーぞコラ!」
 「ドゴ」
色黒の男は殴り飛ばされる。色黒の男は鼻血を出しながら泣きそうな顔でトビーを見る。トビーは険しい表情で色黒の男を睨む。色黒の男は地面にしゃがみ込み土下座をする。
 「す、すみません……」
トビーは尚も土下座する色黒の男を殴りつける。
 「おめー人が死んだらすみませんじゃすまねーんだぞ!二度と人殴れないように両腕折っといてやっから!」
そう言うとトビーは色黒の男の両腕を背後から掴む。
 「うわーーー!」
大声で叫ぶ色黒の男。うずくまっていたさとしがその光景を見て叫ぶ。
 「トビーさん、もうやめてください!」
トビーはさとしを見つめる。
 「こういうやつはこんくらいしとかないとやり返してくっからね、完全にシメとかないとね」
鬼の形相で優しく語るトビー。
 「コラ!何してんだ!」
とその時巡回中の戸越三丁目交番の警察官が自転車で向かってくる。
 「坂崎!また貴様か!」
警察官は色黒の男に向かい怒鳴る。
 「オレこいつらにいきなり殴られたんだよ!」
色黒の男は情けない声を出す。
 「いい加減にしろ!トビーは理由なく殴ったりしないわ!」
そう言うと警察官は男の腕を掴み立たせる。
 「お勤めご苦労様です」
トビーは警察官に向かって言う。
 「ホントこう言うアホはだめだね。いつも悪いね、助かるよ」
警察官はトビーにお礼を言うと、男を連れて交番へと向かう。その光景を茫然と見ているさとし。
 「せっかく風呂行ったのに汚れたな」
トビーは拳についた色黒の男の鼻血を見つめながら呟く。
 「トビーさんって意外と荒いんすね……」
さとしは恐る恐る話かける。
 「……ホントは人なんて殴りたくない」
トビーは小さい声で呟く。しばらく拳を見つめ続けるトビー。
 「……トビーさん、大丈夫ですか?」
その様子を見て声を掛けるさとし。
 「あ、大丈夫」
トビーの目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
 「汚いから風呂行こう。色々話そう」
トビーはさとしを誘う。
 「え?わ、わかりました」
さとしは半ば恐怖を感じたように同意する。

 戸越温泉の男湯。客がまばらな大浴場で湯船に浸かっているさとしとトビー。
 「気持ちいいっすね」
さとしはそう言うと大きく息を吐く。
 「オレね、人を殺したことがあるんだ」
トビーはボソッと言う。
 「え?」
さとしは突然の発言に驚いた顔でトビーを見る。
 「茨城にいた頃さ、暴走族とかやってたんだ。力は強かったから誘われてね」
トビーはさとしに構わず続ける。
 「嬉しかったんだ。オレあんま人としゃべるの得意じゃないから、友達も少なくて。でもそんなオレでも仲間に入れてくれるやつらがいてホント嬉しかった」
トビーは天井を見つめながら続ける。さとしは黙って聞いている。
 「でもね、人を殴ったり傷つけることは好きじゃなかった。ある日同じようなグループのやつとケンカすることになってね。みんなでケンカしたんだ。でもねオレはみんなを守るだけで手は出せなかった」
さとしは黙ってトビーの話を聞き続けている。お湯が湯船に流れ込む音だけが響いている。
 「そのせいで仲間が死んだ……」
トビーは天井を見つめ続けている。さとしはトビーを見る。
 「結局ね、オレは人を傷つけたくなかったんじゃないんだ。人を傷つけることで自分が傷つくのが怖かったんだ。悪いやつは殴るべきだった」
 「トビーさんのせいじゃないですよ……」
さとしは呟く。
 「いや、オレのせいであいつは死んだ。オレが殺した。オレは知っておくべきだった、誰かを守るためには何かを犠牲しなきゃいけないことを……」
トビーはそう言うとお湯を掬い上げ顔を拭う。
 「だからさっきも……」
さとしは神妙な顔で呟く。
 「だからね、オレはもう仲間を失いたくない。そのためなら自分の心も恐怖心も犠牲にすることにしたんだ。さとしが困ったら絶対助ける。みんなもそうだと思う。これからは安心して一番を取りにいきなよ」
トビーはさとしの方を向きほほ笑む。
 「……ありがとうございます。なんか熱いな……」
さとしは少し嬉しそうな顔で言う。
 「え?熱い?じゃあもう出よう。ごめんね話長くなって」
そう言うとトビーは立ち上がる。全裸の状態でさとしの方を向きさとしに手を差し伸べる。
 「ちょ、ちょっと目の前にアレが!」
さとしは思わず叫ぶ。
 「あ、ごめんね」
そう言うとトビーは湯船から出ていく。その後ろ姿を火照った顔で見つめるさとし。
 「仲間……ね……やっぱ何か熱いな」
そう言うとさとしは手のひらで顔を仰ぐ。

 103号室。ベッドに座り首からタオルを下げた状態で座っているさとし。
 「たまには銭湯も悪くないな」
そう言いながら、ペットボトルのお茶を飲むさとし。
 「バタン!」
とその瞬間玄関の外のエントランスから大きな物音がする。さとしはその音に驚き、飲んでいたお茶を床にこぼす。
 「なんだ!?」
そう呟くとさとしは玄関へと向かう。玄関のドアスコープから外を覗くさとし。何かが散らばっているのが見える。
 「?」
さとしは気になり玄関のドアを開け外に出る。
 玄関に出るとポストの横に置いてある不要なチラシを捨てるために設置されたゴミ箱が倒れている。そしてチラシやDMが散在している。ポストの方に目をやるとシームレスが険しい表情を浮かべ立っている。
 「……シームレスさん?どうしたんですか?」
さとしは異様な様子のシームレスに恐る恐る声を掛ける。
 「……さとし」
シームレスは険しい表情のままさとしを見る。
 「大丈夫ですか?何かあったんですか?」
さとしは尋ねる。
 「何でもない……」
シームレスはボソっと応える。その手には破れたはがきの破片が握られている。シームレスの足元に落ちているはがきの破片を拾い上げるさとし。
 「……3年……同窓会」
拾ったはがきの破片に書かれている文字を読むさとし。
 「勝手に触らないで!」
シームレスは突然怒鳴る。
 「あ、すみません」
さとしはとっさに手に持ったはがきの破片を放り投げ後退る。
 「……ごめん」
シームレスは依然として険しい表情のまま言う。
 「すみません、戻ります」
さとしはそう言うと103号室のドアへと向かう。
 「ちょっと待って」
その瞬間シームレスがさとしを呼び止める。
 「戻るの?そのまま部屋に戻るの?」
シームレスは淡々と言う。
 「え?何か戻った方がよさそうなんで……」
さとしは当惑した表情で言う。
 「そっか。その考え方、普通だね」
シームレスはまたも淡々と言う。
 「普通って!気を使って戻るって言ってんのにその言い方はないでしょ!」
さとしは大きめの声で言う。
 「気を使う……誰に?自分に?」
シームレスは言う。
 「あんたさ、なんでそうやって思ったことをズバズバ言うかね?そんなに人を嫌な気持ちにさせたいんですか?」
さとしは怒鳴る。
 「逆だよ。自分を守るため」
シームレスは言う。
 「自分守るって、どんだけ自己中なんですか?そんなんだからどうせ友達もいなかったんでしょ?だから同窓会行きたくなくてそれ破ってたんでしょ?」
さとしはシームレスを攻め立てる。
 「違う!」
シームレスは大きな声で言う。
 「私は、自己中どころか周りに合わせ過ぎてた。だからこんな茶番には行きたくないの!」
シームレスは落ちたはがきを思いっきり踏みつける。
 「どういうことですか?」
さとしは落ち着きを取り戻し質問する。
 「私はね、自分を守るために思ったことは言うことにしてるんだ、それが人のためにもなる気もしてる」
シームレスは俯き気味で言う。
 「自分を守るためって?」
さとしは質問する。
 「……私は小学校の時はね、すごく大人しい子だった。みんな私の存在を覚えていないくらいね。周りの友達に合わせていつも黙ってついていってた。みんなのやりたい遊びにも付き合ったし、言われたことも素直にやったわ」
シームレスは俯いたまま語る。
 「じゃあ何で思ったことを言うようになったんですか?」
さとしは俯くシームレスの様子を伺いながら尋ねる。
 「分かるでしょ。大体人なんて自分に都合のいいやつには何言っても、何やっても許されると思うの。だから私はいつの間にかいじめられた。はけ口にされた」
シームレスは顔を上げ険しい表情でさとしを見つめる。
 「……」
さとしはその表情に何も言えず黙る。
 「結局中学に入っても、ますます周りは頭に乗った。それでね、ある時私は気付いたの。私が思ったことを言わないから、周りのやつらがどんどん可哀想な人になってくことに。そして自分自身も守れないことに」
シームレスは少し穏やかな表情を見せる。
 「……そうなんですね」
さとしはバツが悪そうな表情をしつつ呟く。
 「だからね、私は自分を守るために素直になることにしたの。周りにもその方がいいと思って。それがいつの間にか私の普通になった」
シームレスは穏やかな表情に戻る。
 「色々あったんですね。そりゃ破りたくなりますよね」
さとしは落ちているはがきの破片を見て言う。
 「私がね、こんなの行くわけないのにさ、そんな感じじゃなかったの知ってるはずなのにさ、ただ名簿にあったからって送ってくるんだ。普通じゃないよ、あのクソ共」
シームレスはそう言うと握っているはがきの破片と、落ちているはがきの破片をゴミ箱の奥に手を伸ばして入れる。
 「はじめて、普通じゃないって聞きましたシームレスさんの口から」
さとしは少し驚いた顔で言う。
 「普通って何だろうね?人の気持ちも忘れちゃうような人の考えは理解できない。そうじゃなくてちゃんと理解できるのが普通って思うことかもね。だからさとしは普通なのかもね」
シームレスは言う。
 「普通っすか」
さとしは呟く。
 「私は普通に自分もマルミエールのみんなも、さとしも、全部を守るために言いたいことは言うから。だからさ、さとしも苦しいんなら自分に素直にしたらいいよ」
シームレスは言う。
 「素直に……ですね」
さとしは呟く。
 「それじゃ残りの散らかったゴミかたしといてね、さとし」
シームレスはそう言うと階段へと向かう。
 「はい」
さとしは返事をする。
 「素直だね」
シームレスはそう低いトーンで呟くと階段を上がって行く。シームレスの後ろ姿を眺めた後、ゴミを片づけ始めるさとし。
 「あれ?」
さとしはシームレスが握っていたはがきの別の破片を手に取り見つめる。
 「これ……出席に丸付けた痕が……」
はがきの破片を握ったまま、二階へと続く階段の方を見るさとし。
 「素直……じゃない?」
微かに笑顔を浮かべ、しばらく立ち尽くすさとし。

 103号室。さとしが机に座りパソコンをいじっている。
 「やべー、明日までにこの提案書仕上げなきゃいけないのに時間がない!」
さとしは激しく貧乏ゆすりをしながら嘆く。机の上の置時計を見るさとし。12時を指している。
 「もうこんな時間……眠い」
そう呟くと座ったままうとうととし出すさとし。しばらくして目を見開く。
 「はっ!寝ちゃだめだ!コーヒーでも買ってくるか」
さとしは机の横に置かれた鞄から財布を取り出し、玄関へと向かう。
 財布を握ったままマルミエール戸越のエントランスを出ようとするさとし。自動ドアが開く。
 「あ!」
さとしが自動ドアを出ようとするとギターケースを抱えたテイジーと鉢合わせる。
 「さとしか。ビックリした!」
テイジーは少し驚いた表情で言う。
 「テイジーさんこんな遅くまで練習ですか?」
さとしはシームレスの抱えるギターケースを見て質問する。
 「ちょっとね。おかげでギターも弾けるようになったし」
テイジーはギターケースを摩りながら言う。
 「さとしはどこいくの?」
シームレスが尋ねる。
 「ちょっと眠いんでコーヒーでも買おうかと」
さとしは応える。
 「気合入ってるね。そう言えばさとしもギターやるんだよね?バーミヤンがさとしんちにギターあったって言ってたよ」
テイジーが尋ねる。
 「あー、昔ちょっとやってただけで今はただのオブジェみたいなもんですけどね」
さとしはボソッと言う。
 「そうなんだ。やればいいのに」
テイジーは言う。
 「まあ時間もないんでできないっす」
さとしは苦笑いしながら言う。
 「そうなの?時間ないなら時間作ってやったら?」
テイジーが言う。
 「だから時間ないんすよ。毎日家帰るの23時とかだし、土日は疲れちゃってできないし」
さとしが少し語気を強めて言う。
 「時間あるじゃん。やらないのは違う理由でしょ。そんな好きじゃないからでしょ?はじめっからそう言いなさい!」
テイジーは強い口調で言う。
 「好きじゃなくないですよ!オレもテイジーさんくらい時間あればやってますよ!いつも18時には家に帰ってるんでしょ?ならできますよ。オレはそんな暇じゃないんですよ!」
さとしはイライラしながら言う。
 「私みたいに……ね。正直私はこれをやるために定時に帰る仕事してるんだよ。生活のおまけでギター弾いてるわけじゃないんだよ!」
テイジーは強い口調で言う。
 「……でも時間あることに変わりないでしょ」
さとしはボソっと言う。
 「全然違うと私は思う。ちゃんと先を考えた上で決めてることだから。なんとなくやってるわけじゃないから。私には時間が惜しいの。さとしみたいに無駄に時間を過ごすのは嫌なの。だから私は時間を大事にしているの」
テイジーは言う。
 「そうですね!オレは時間無駄にしてますよ!今こうして立ち話してる時間がもったいない!明日までにめんどくさい提案書やらなきゃいけないんですよ!」
さとしは怒鳴る。
 「さとし、そんな時間に縛られると人生損するよ!」
テイジーは言う。
 「は?あんただって散々縛られてる話してたのにわけわかんないな!」
さとしは怒鳴る。
 「私は時間に縛られたくないから時間を大切にしているだけ。逆なんだよ!」
テイジーは言う。
 「どういうことですか?逆ってなんなんすか!?」
さとしは怪訝な表情で尋ねる。
 「私の両親はね、いつも時間がない、時間がないって言ってたわ。口を開けば時間がない、時間がなくてやりたいこともできなかった、そう小さい頃から言われ続けて育った。だから大人って忙しいんだろうなって思ってた」
テイジーが静かに話す。さとしは黙って聞いている。
 「でもね、高校生の時ね、おかしいなって気付いた。そんな親はね休日は家にいるし、一日横になったりテレビ見たりしてた。時間あるじゃんって思った」
テイジーは静かに話し続ける。
 「オレと一緒ってことですか……」
さとしはボソっと言う。
 「はじめはきっと時間が本当になかったのかもしれない。でもそのうち決まり文句のような言い訳に時間がないってのを使うようになちゃったんじゃないかと思う。だから私は言い訳できないくらいの時間を作って自分のやりたいことが本物か試すことにした。時間をこっちから制御してやろうと思った」
テイジーは語気を強めて言う。
 「やりたいこと?ギターですか?」
さとしは尋ねる。
 「ギターもそうだけどね。今色んなカフェとか回って演奏させてもらいつつ、運営についても勉強させてもらってるんだ」
テイジーは言う。
 「運営ですか?カフェの?」
さとしは尋ねる。
 「そう。私の夢はね、みんなが時間を忘れて楽しめる、そんなバンドカフェをやることなんだ」
テイジーは笑顔を浮かべる。
 「……時間を忘れて楽しめる……」
さとしはボソッと言う。
 「さとしもさ、時間がなくても時間を見つけてやっちゃうこととか、時間を作ってでもやりたいことで1番を目指しなよ!きっと1番になれるよ!」
テイジーは笑顔で言う。
 「なれますかね、1番……」
さとしはボソッと呟く。
 「なれるよ!私がなれるっていったらなれるんだよ!」
テイジーが強い口調で言う。
 「強引だなぁ」
さとしは苦笑いをする。
 「引き止めちゃってごめん!そんじゃ今日のところは提案書頑張りなさい!」
テイジーはそう言うとさとしの背中をポンと叩き、エントランスから入っていく。
 「頑張ります……」
さとしはそう呟くと携帯電話を取り出し画面上の時計を見つめる。画面には「0:30」の文字。
 「まだこんな時間か……」
さとしはボソッと呟く。

 数日後。さとしが商店街を歩いている。
 「たまには休日も外に出なきゃな」
さとしはボソッと呟くと空を見上げる。曇り空が拡がっている。微かに雲の合間から日が漏れている。
 「そろそろ晴れそうだな」
そう呟くと足早に歩き出す。商店街に立ち並ぶ店舗を横目に見ながら歩くさとし。
 「そういえば戸越は商店街で有名なんだったな。引っ越してきてからほとんど来てなかったけど、何気色々あるな」
 そう小さい声で呟くさとし。しばらく歩いたところで急に立ち止まる。一軒のカフェを見つめるさとし。カフェの窓ガラス越しにドンが座っているのが見える。
 「ドンさんだ……」
しばらく見つめているさとし。ドンの前にスーツ姿の男が現れる。握手をするドンとスーツ姿の男。
 「何してんだろ?休日まで仕事か?」
さとしは呟く。ドンはノートパソコンを取り出し、スーツ姿の男に画面を見せている。
 「よくやるよ」
そう言うと再び歩き出すさとし。携帯電話を取り出し画面を見る。
 「お、電車の時間ちょうどいいな」
地下鉄の駅へと一目散に向かうさとし。

 地下鉄の戸越駅。さとしが階段から地上に上がってくる。外は暗くなっている。
 「もう20時か、結構疲れたな。買い物も楽じゃねーわ」
そう言うと大きな紙袋を握り直し商店街の道を歩き始める。ドンがいたカフェの前にさしかかるさとし。ふと横目でカフェを見ると、ドンがパソコンを弄っている姿が見える。
 「あれ?まだいるわ。こんな長時間何してんだろ?」
立ち止まりカフェの店内を見つめるさとし。
 「へい!」
とその時背後から何者かがさとしの肩を叩く。
 「わっ!」
驚き手に持っていた紙袋を落とすさとし。
 「へい、さとし!ストーキング?青春だねぇ。ハハハ」
ハイコがハイテンションでさとしに声を掛ける。
 「なんだ、ハイコさんか。脅かさないでくださいよ~」
疲れた表情でハイコを軽く睨むさとし。
 「誰のストーキング?」
そう言うとカフェの方を見るハイコ。
 「ドンだね!ドンのストーキング?BL?ハハハ」
 「ストーキングじゃないですよ!たまたまドンさんがいて気になったからちょっと見てただけです!」
さとしは必死に説明する。
 「気になって見てた?完全なるストーキングだね。ストーカーはみんな言うんだよ、たまたまいたから見てたって。そんなんで済んだら警察いらないんだよ!ホントに気になるなら声かけたらいいじゃん。面と向かって気になるって言えばいいじゃん!このボーイズラブ野郎!ハハハ」
ハイコは大げさにそう言うと大きな声で笑う。
 「だからボーイズラブって言うのやめてもらえますか?その気ないですから!」
さとしは大きな声を出す。
 「冗談だよ!ホントだったら当にドン引き!ハハハ」
そう言うとさとしの背中を数回叩き去っていくハイコ。
 「何だよ、バーミヤンさんはあんなこと言ってたけど、あいつ百パーただの脳天気だろ……」
ハイコの歩き去る背中を見つめながら、ボソッと呟くさとし。再びカフェの方に視線を戻すさとし。さっきまで店内に座っていたドンがいない。とその時カフェのドアが開く。
 「あれ?さとし?」
ドンがカフェから出てきてさとしに気付き声をかける。会釈をするさとし。
 「奇遇だね!買い物してきたの?」
さとしに近寄るドン。
 「そうです。ドンさんは何を?」
ドンに尋ねるさとし。
 「ちょっと時間潰してた!」
ドンは笑顔で応える。
 「ちょっと?」
さとしは納得できない表情で呟く。
 「そうだ、一杯やりにいかない?」
ドンは呑むジェスチャーをしながら言う。
 「ちょっとならいいですよ」
さとしは応える。

 「……一杯ってコーヒーですか?」
カフェに座っているさとしとドン。
 「一杯が酒のことだなんて誰が決めたんだろうね!」
ドンは言う。
 「でも一般的にはお酒のことですよ」
さとしは言い返す。
 「そうだね。ま、酒飲むと思考能力が低下するから鼻見と付き合い意外では飲まないことにしてるんだ」
ドンが言う。
 「意外ですね。毎日飲むのかと思いました」
さとしは言う。
 「そうかな?確かに見た感じ飲みそうかもね。仕事的にも合コンとか盛んなイメージあるしね、ハハハ!」
ドンは笑いながら言う。
 「ホント明らかにそうなのかと思いましたよ。休日も合コンとかゴルフとか行くのかと!」
さとしも笑顔で言う。
 「さとし、そこだよ」
ドンは急に真面目な顔をしてさとしを見つめる。
 「え?」
さとしはドンのテンションの落差に戸惑う。
 「さとしはね、一般的とかイメージとかに囚われてるんじゃないかな」
ドンは言う。
 「何ですか?いきなり……」
さとしは少し不機嫌な表情になる。
 「既成概念に囚われると人生がつまらなくなるよ」
ドンは真面目な表情のまま言う。
 「説教ですか?またセミナーとかの話ですか?」
さとしはドンを睨む。
 「説教なんてしないよ!できる立場じゃないしね。たださとしに楽しくなってもらいたいだけだよ」
ドンは優しい表情に戻る。
 「どういうことですか?」
さとしは訝しげな表情で尋ねる。
 「オレの話してもいいかな?」
ドンがコーヒーを一口飲みながら言う。
 「はぁ」
さとしもコーヒーを一口飲み応える。
 「オレさ、小学校6年の時にね、親に言ったんだ。『あんたらから学ぶことは何もない』って」
ドンは真剣な表情で言う。さとしは黙っている。
 「オレの親はね、いつもケンカばっかしてたんだ。子供の前でも人の前でも。一日も休みなくね。それで夕飯を母親が作ってくれないこともあったし、父親にはいつも母親との伝令をさせられた」
ドンは続ける。さとしは無言で聞いている。
 「友達の家に行った時とかさ、友達の両親は仲が良くてさ、一緒に遊びに連れてってくれたりしてさ、なんでうちはこうじゃないんだろうっていつも考えてた。色んな人にも聞いた。図書館で本もたくさん読んだ。でも答えは見つからなかった」
ドンはまっすぐにさとしを見て話している。
 「……」
さとしは依然として無言で聞いている。
 「でもね。ある雨の日気付いたんだ。その日は雨がすごい降ってた。学校に行くとね、みんなイライラしてた。なんでって聞いたらみんな雨で濡れたからだって言うんだ。でもオレは雨が好きだった。雨の日は自然と両親があまりケンカをしなかったんだ。それだけの理由で雨が好きだった」
ドンは微笑む。
 「雨ですか……」
さとしはボソッと呟く。
 「でね、その時初めて雨は一般的には嫌われる天気なんだって気付いた。それでね、自分が思ってることって全く違う見方があることを知ったんだ」
 「どういうことですか?」
さとしは尋ねる。
 「オレはさ、親に期待してたんだ。何かをしてもらいたい、教えてもらいたい。親は凄いものだ、守ってくれるものだ、ってね」
ドンは言う。
 「それで……学ぶことはないって言ったんですね」
さとしは少し納得した表情をする。頷くドン。
 「この前貸した本覚えてる?」
ドンは尋ねる。
 「問題解決プロフェッショナル?」
さとしはボソッと言う。
 「そう。あの本にゼロベース思考ってあったでしょ?」
 「ああ、自分の狭い枠の中で否定に走らない……」
さとしは思い出したように言う。
 「そう。つまりさ物事をゼロから考え直すってことだね。オレは無意識に小学生の時にやってたんだって大人になって分かったよ。だからね、オレはゼロに戻すことは大事なことだと今でも思う」
 「ゼロに戻す……?」
 「ゼロにすることはね、これまでの自分とか歩いてきた道を否定するようで怖いことだし、勇気がいることであるのは確かなんだ。オレも親に対する見方を変えるのは怖かった。でもね、実際やってみたらすごく楽になれたんだ。むしろ肯定的に両親を見られるようになった」
ドンは笑顔で言う。
 「そうなんですか?」
さとしは呟く。黙って深く頷くドン。
 「考え方をゼロにすることと、自分の価値をゼロにすることは全く別だしね!あと他にもね、ビジネスの発想には実は人生に当てはめると面白いものが結構あるんだよ。MECE(ミッシー)とかね」
 「MECE(ミッシー)?」
さとしは質問する。
 「さとし、さては読んでないね」
ドンは笑顔で言う。
 「す、すみません」
さとしはバツが悪そうに言う。
 「いや、いいんだよ。読みたくなったら読んでよ!でね、MECEってロジカルシンキングの定番みたいなものなんだけどね、漏れなくダブりなし、って意味なんだ」
ドンの言葉にさとしは頷いている。
 「漏れもないし、ダブりもない、そんな考え方がベストってことなんだけどね、みんなこれを実践すべきって言うけどね、でも世の中は漏れもダブりも求められてるから傑作だよね!」
ドンは笑う。
 「求められてる?」
さとしは呆気らかんとした表情をしている。
 「だってさ、人と違ったことをして一番になることが凄いことだったりさ、逆にみんなと同じように行動することが正しいとされたりするじゃん。みんな漏れたりダブったりすることを求められてるし、そして自ら求めてたりするんだよね」
ドンは笑顔で言う。さとしは何度も頷いている。
 「オレはね、人自体はみんな元々MECEだと思うんだよね。全く同じ思考のやつもいないし、まったく的外れな人もいないだろ?だからさ、さとしもMECEなんだよ」
ドンは言う。
 「オレがMECEですか?」
さとしはドンを見つめる。
 「さとしがやることはいつも唯一。だからさ自信持って思った通りに生きなよ!そんなさとしを漏らすやつは、少なくともあのマンションにはいないから!」
ドンはそう言うと微笑む。そしてドンは手を挙げる。
 「すみませーん、お会計お願いします!」
店員を呼ぶドン。
 「……帰ったらあの本ちゃんと読んでみます……」
さとしはボソッと言う。ドンは店員から伝票を受け取りながら、笑顔でさとしに頷いている。
 「あ!」
伝票を見て声を出すドン。
 「すみません!これ注文一個漏れてるし、片方は一杯なのに二杯になってますよ!」
ドンが店員に声を掛ける。
 「すみません、すぐに直して参ります」
店員は頭を下げドンから伝票を受け取る。
 「漏れなくダブりなし……か」
店員に伝票を渡すドンを見つめながら、小さな声で呟くさとし。

 さとしとドンがマルミエール戸越のエントランスに入ってくる。
 「じゃ一杯付き合ってくれてありがとう!さとし!」
ドンは笑顔でさとしに向かって手を挙げあいさつをする。
 「あ、こちらこそご馳走になってしまって。ありがとうございました」
さとしは軽く会釈をする。
 「あそこのコーヒー旨いからね!ブラックが一番おいしい!砂糖、ゼロだよ、さとし。でもオレは加藤だからそこんとこよろしく!」
ドンはそう言うと颯爽と二階へと続く階段を駆け上がっていく。
 「……そうだ、ドンさんって加藤って苗字だったの忘れてた」
さとしはそう言うとポストへと向かう。103号室のポストのダイアルを回し開くさとし。ポストの奥に電気使用量の通知と、電気料金値上げの通知が届いている。取り出そうと手を伸ばすさとし。その時ポスト越しに見えるマンションの前の通りを、ハイコがコンビニの袋を持って歩いてくる姿が見える。いつもの笑顔はなく、無表情のハイコ。
「……」
ポスト内に伸ばした手をそのままに、いつもと様子の違うハイコを見つめるさとし。ハイコが調度ポストの前に通りかかった時、突然ハイコが立ち止まりポストの方を向く。
 「……」
ポスト越しにハイコと目が合い、固唾を飲むさとし。
 「何見てんだよ!ストーキングさとし!次のターゲット探しかい?ハハハ!」
ハイコは先ほどの表情とは一変、満面の笑顔でポストの反対側の投函口に指を入れ開き、さとしに声を掛ける。
 「わ!びっくりした!そっち側から見えました?」
さとしはポストを覗いたまま声を出す。
 「見えなかったけど気を感じたよ、ストーク王にオレはなるって感じの強い気を!ハハハ!」
ハイコはポストの反対側の投函口を指で押さえたまま言う。
 「だからそのキングじゃないですから!動詞を名詞にするための……ってどっちでもないからいいけど!」
さとしは真面目にツッコもうとして途中でやめる。
 「諦めた!認めた?認めたってことでいいかな、BL野郎!ハハハ」
 「だから認めてないから!ってかハイコさんは何でそんないつも笑ってるんですか?テンション高いんですか?」
さとしは低いトーンで尋ねる。
 「楽しいから!ハハハ!」
ハイコは笑いながら応える。
 「じゃあいつも笑ってるのはいつも楽しいからですか?」
さとしは更に尋ねる。
 「そうだよ、そうだよ、しょうゆーこと!ハハハ!ソースだと思った?醤油だよ!ハハハ!」
ハイコは大きな声で笑う。
 「でもさっき暗い顔で歩いてましたよね?」
さとしは言う。
 「……え?外が暗いから、その真似してただけだよ!ハハ」
ハイコは少し間を開けた後、やや低めのトーンで言う。
 「そうですか。楽しいから笑ってるんですね」
さとしは諦めたように言う。
 「うん、楽しいからだよ。ホントは笑ってた方が楽しいからかな?」
ハイコは呟く。
 「笑ってた方が楽しい?」
さとしは聞き返す。
 「うん。私ね……」
ハイコはいつになく低いトーンで話し始める。
 「……ちょっと長くなるかもなんだけど、ポスト越しでもいいかな?目だけを見て話した方が工藤静香っぽいし!ハハ」
ハイコはそう言うと投函口から両目を覗かせる。ハイコの表情が見えなくなる。
 「目と目で通じ合う……って古いですね。全然このままで構いませんけど」
さとしはツッコミつつ応える。
 「私ね……昔は笑ってなかったんだ、ハハ。正確には笑えなかったのかな。笑い方を知らなかったのかな」
ハイコは時折意図的に笑いながら話し始める。黙って聞いているさとし。
 「私の小さい頃ね、家で笑ってる人なんていなかったんだ。むしろみんな怒ってたし、お姉ちゃんがいたんだけどね、彼女はいつも泣いてた。私はそんな人たちを見て、怒るのも、泣くのも嫌だったからいつも無表情だった。例えるならミッフィーちゃんみたいな感じかな。ハハ」
そう言うと、ハイコの目つきが真剣になる。
 「そうなんですね」
さとしは相槌を打つように小さく呟く。
 「でね、私とお姉ちゃんを生んだ人たちはね、いつも怒ってたからね、親戚の人もいつも怒っててね、私とお姉ちゃんは親戚の人からもなぜか怒られてたんだ。何もしてないのにね、怒られてたんだ。ハハ」
ハイコの目が哀しげになる。
 「怒られ過ぎてね、お姉ちゃんは泣かなくなった。正確にはもう泣かなくていい世界に旅立った。そんな世界ないのにね、ハハ」
ハイコは低いトーンで笑う。
 「……」
さとしは黙って聞いている。
 「そんな時でもね、私は無表情を決め込んだんだ。そんなんだからね学校でもね、のっぺらぼうって言われてね、気付いたらみんな人形遊びに飽きてね、一人になってたんだ、ハハ」
ハイコは続ける。ポスト越しに軽く頷き相槌を打つさとし。
「でもね、やっぱ表情に出さなくてもさ感情があってね、なんでこんな事になったのかなって悩んでね、鏡みたらね、ミッフィーちゃんがいてね、何かアホらしくなってね、笑っちゃったんだ、ハハ。そしたらね何か少し楽になった気がしてね、それからその鏡に映ったミッフィーちゃんをね思い出してね、思い出し笑いするようになったの、ハハハ」
ハイコは大きな声で笑う。笑い声とは裏腹に、その目には薄らと涙が浮かんでいる。
 「思い出し笑い……」
さとしは呟く。
 「うん。思い出し笑いするようになったらね、一人になることが少なくなった。笑うとみんな仲良くしてくれるし、ちょっと楽しくなるんだって思った。だからそれ以来悲しいときも、ムカついたときも全部頑張って笑うようにしたんだ。ハハ」
ハイコは小さい声で笑う。
 「喜怒哀楽の表現が全部笑うことだったんですね……」
さとしがボソッと呟く。
 「うん。でも正確には怒哀だけだったかな、ハハ。あ、でも今はね、喜と楽で笑ってるよ!マルミエールのみんながそうさせてくれてるんだよ!ハハハ!」
ハイコはそう言うと笑う。
 「なら良かったです」
さとしは呟く。
 「だから私はね、みんながつらい時はねその分笑うの。だからね、さとしがスーパーひとしくん出してね、もし間違えたとしてもね、私がその分笑うから、さとしは泣いたらいいよ!それだけは間違いないから!ハハハ!間違い探し!」
ハイコは大きな声で笑う。
 「ハイコさん……ホントに笑ってくれますか?」
さとしは呟く。
 「どうかな?ハハハ!」
ハイコは再び笑う。
 「ええ?前言撤回ですか!?」
さとしはツッコミ口調で言う。
 「ハハハ!さっきの前言を撤回だよ。いつでも、何回でも私は笑うから!ハハハ!」
ハイコは笑い声が周囲に響き渡るくらいの声で笑う。
 「ははは」
さとしも小さい声で笑う。
 「あ!」
ハイコが突然大きな声を出す。
 「どうしました?」
さとしは尋ねる。
 「コンビニでまさかり買ってくるの忘れてた!」
ハイコはそう言うとポストの投函口を閉める。
 「ええ?まさかり?まさかりって!金太郎か!」
ポスト越しに去っていくハイコにツッコむさとし。その後ろ姿は涙を拭っているように見える。ハイコの姿が見えなくなる。
 「……むしろ金太郎飴ですか、ハイコさん。いつでも、どこでも笑顔が出てくる金太郎飴女……」
さとしはそう小さい声で呟くと、ポストを覗いたまま微笑みを浮かべる。

 103号室に戻るさとし。ポストから取り出した電気使用量の通知と電気料金値上げの通知を机に置くと、ベッドに仰向けに横になるさとし。
 「ふう……今日は盛りだくさんだったな」
そう呟くとふと横を向くさとし。本棚の下の床にペンギン、くま、恐竜のぬいぐるみが3体転がっている。仲良く落ちて並んでいるように見える。バーミヤンの顔を目に浮かべるさとし。
 「スーパーひとしくんが出せない」
「でもさとしとかみんなには全力で行って欲しいと思うんだ」
トビーの顔を目に浮かべるさとし。
「オレはもう仲間を失いたくない。そのためなら自分の心も恐怖心も犠牲にすることにしたんだ。さとしが困ったら絶対助ける。みんなもそうだと思う」
シームレスの顔を目に浮かべるさとし。
「私は普通に自分もマルミエールのみんなも、さとしも、全部を守るために言いたいことは言うから。だからさ、さとしも苦しいんなら自分に素直にしたらいいよ」
テイジーの顔を目に浮かべるさとし。
「さとしもさ、時間がなくても時間を見つけてやっちゃうこととか、時間を作ってでもやりたいことで1番を目指しなよ!きっと1番になれるよ!」
ドンの顔を目に浮かべるさとし。
「オレはね、人自体はみんな元々MECEだと思うんだよね。全く同じ思考のやつもいないし、まったく的外れな人もいないだろ?だからさ、さとしもMECEなんだよ」
「さとしがやることはいつも唯一。だからさ自信持って思った通りに生きなよ!そんなさとしを漏らすやつは、少なくともあのマンションにはいないから!」
「だから私はね、みんながつらい時はねその分笑うの。だからね、さとしがスーパーひとしくん出してね、もし間違えたとしてもね、私がその分笑うから、さとしは泣いたらいいよ!それだけは間違いないから!ハハハ!間違い探し!」
それぞれの言葉を思い出し目を強く閉じるさとし。目を開け天井を見上げる。
 「ああ。うざいな……」
ボソッと呟くと立ち上がるさとし。床に落ちているペンギン、くま、恐竜のぬいぐるみを拾い上げ、本棚の上に置く。
 「何もできないオレが……か」
そう呟きながら恐竜のぬいぐるみをペンギンとくまに挟むような形で立たせるさとし。ふと本棚に置いてあるカレンダーを見つめるさとし。
 「今週末鼻見だったな……」

 翌週。103号室。カーテンを半分開いた窓から夕日が差し込んでいる。さとしがベッドに座り問題解決プロフェッショナルの最後のページを読んでいる。読み終え本を閉じるさとし。背表紙を見つめるさとし。
 「やっぱ難しいわ」
とその時、
 「ゴン!」
何かが玄関のドアにぶつかる音がする。
「!?」
尋常ではない音に驚き玄関へと急ぐさとし。ドアを思いっきり開けるさとし。
 「なんだ!?」
開いたドアからさとしが焦った顔を覗かせる。横を向くとそこにはまさかりを担いだハイコが立っている。
 「うわー!」
叫び声を上げるさとし。
 「ハハハ!」
 「はは!」
さとしの様子を見て笑うハイコとその後ろに立つバーミヤン。
 「笑いごとじゃないですよ!リアルに危なすぎます!!」
さとしは大声で怒鳴る。
 「危険は隣り合わせなんだよ!人生は!ハハハ!でも私がお隣さんじゃなくてよかったね!ハハハ」
ハイコが満面の笑顔で言う。
 「みんな待ってるから屋上行こう!鼻見だよ!そうだ、屋上行こう!」
バーミヤンも微笑みながら言う。
 「そうだ、って『そうだ京都行こう』みたいな思いついた感がない!すでに行こうって言った後に言われても!」
さとしはツッコむ。
 「ツッコミが丁寧だね、さすがさとし!」
バーミヤンは穏やかに言う。
 「じゃ屋上行こう!そうだ、屋上行こう!ハハハ」
ハイコもバーミヤンを真似て言う。
 「だから!まあ今日はヒマだし行きますか!」
さとしはいつもより高めのトーンで言う。
 「今日はね、秋フェス!サバートニックだよ!ハハハ!」
ハイコが笑いながら言う。
 「そう!サバと肉!」
バーミヤンが言う。
 「またサバですか!サマーソニックみたいに言うな!それに肉ってサバだけ具体的!」
さとしはツッコむ。
 「ごめんね、みんなサーバから食べたいくらいサバが好きなんだよ」
バーミヤンが真顔で言う。
「そう、サバのことになるとみんなサバイバルになるから気を付けて!まさかりは必須だよ!ハハハ」
「だからまさかりは危険過ぎます!」
真剣な表情で言うさとし。
 「まーさかりかーついだ慎太郎!都知事!ハハハ」
ハイコが歌いながら二階へと続く階段を上がって行く。微笑みながら続いて階段を上がって行くバーミヤン。
 「まったく」
そう言うと笑みを浮かべ二階へと続く階段を上がって行くさとし。

第六章 自心

 屋上。夕焼け空の下トビーが七輪でサバと肉を焼いている。その横で腕を組んで七輪を見つめているテイジー。
 「そこ!焼き加減が足りない!」
テイジーがトビーに注意をしている。その奥の木でできた机にグラスを並べているドン。屋上の柵の隙間の間隔を確かめているシームレス。そこへ入口のドアが開き、まさかりを担いだハイコが入ってくる。
 「まさかり担いだキダタロー!が作曲したこの曲最高!ハハハ」
ハイコが満面の笑みでまさかりを振り回している。その後ろからバーミヤンとさとしが入ってくる。
 「え?浪花のモーツアルトが作曲したの?」
バーミヤンがハイコの発言を真に受け尋ねる。
 「そんなわけないでしょ!」
ツッコミを入れるさとし。
 「あ、ハイコ調度いいところにまさかり持ってきてくれたね。ちょっとこの肉切って!」
テイジーがまさかりに疑問を全く感じずハイコに話しかける。ハイコがまさかりをテイジーに手渡す。
 「結構焼けてきたからみんな座って」
トビーが汗だくの顔で言う。
 「今日はサバートニックだから盛り上がって行こう!」
ドンがテーブルに置かれたサバと肉を手に持ち言う。
 「みんな何飲む?第三のビールの人?」
シームレスが発泡酒の缶を持ち上げて言う。
 「あ、じゃあビールいただきます」
さとしはシームレスから缶を受け取る。他の面々は反応しない。
 「じゃあ第一のビールの人?」
シームレスがプレミアムモルツを持ち上げて言う。バーミヤン、ドン、テイジーが勢いよく手を挙げる。
 「ええ?第一あったんですか!」
さとしが手に持った発泡酒の缶を見つめ大きめの声を出す。
 「さとし、第三のビールも一番初めに貰えば第一のビールだよ。三かどうかは人が決めただけ」
シームレスはボソッと言う。
 「なんか……やなんすけど」
さとしは発泡酒の缶を握ったまま、力なく古びた茶色い革のソファーに腰を下ろす。
 「じゃあハイコとトビーはチューハイね」
シームレスはさとしの様子を見届けた後、ハイコとトビーにチューハイの缶を手渡す。
 「よっし、じゃあ行くよ」
ドンが手に持った缶を高く掲げる。他の面々も同様に手に持った缶を高く掲げる。
 「鼻見スタート!」
面々は同時に声を上げ乾杯をする。

 1時間後。空き缶が複数転がり、机の上のサバと肉もほぼ無くなっている。
 「いやー、それでねその客に言ったわけ!それは焼売じゃないです!包み隠さず言いますけど餃子です!って」
バーミヤンが笑顔で言う。
 「え?小龍包じゃないの?ハハハ」
ハイコが聞き返す。
 「ってかさ焼売と餃子の違いって何?」
シームレスも淡々と言う。
 「私なら焼売だけにムスッとしちゃうな」
テイジーが言う。
 「オレなら焼売でも餃子でもいいじゃないですか、それか確かめるために追加で焼売のご注文はいかがですか?って言うかな」
ドンが冷静に言う。
 「オレは焼売ってことにして面倒を避ける」
トビーがボソッと言う。
 「そうですねオレだったら……って『包み隠さず』にツッコんで上げてください!」
さとしが大きい声でツッコミを入れる。
 「え?ツッコむって何?ニラの話?」
バーミヤンが呆気らかんとした表情で言う。
 「バーミヤンさんがいいならいいです!」
さとしは投げやりな感じで言う。
 「さとし最近よくツッコむな~」
バーミヤンが言う。
 「いや、皆さん普段からボケるもので」
さとしは少し恥ずかしそうに言う。
 「でもさとしのツッコミいいよね!」
ドンが言う。
 「え?そうですか~?」
さとしは少し照れながら言う。一同はそんなさとしを見て微笑む。
 「そう言えばバンドセットまだ置いてありますね。この前聴けなかったので聴かせてくださいよ」
さとしはバンドセットの方を見ながら言う。
 「でね、次はラー油の話なんだけどね」
さとしの言葉に反応せず話続けるバーミヤン、それを聞いているハイコ、ドン、テイジー、トビー、シームレス。
 「あれ?バンドやってくださいよ~」
少し酔いで赤くなった顔で面々に向かって再び話しかけるさとし。
 「今話してるからさ、さとし!」
バーミヤンが言う。
 「オレも昔ちょっとっすけどギターやってたんすよ。バンドとか参加してみたいっす」
さとしが笑顔を浮かべ言う。
 「だめだね」
ドンが急に真顔で言う。
 「え?」
予想外の反応に戸惑うさとし。
 「今のさとしをメンバーにはできない」
ドンが更に真面目な表情のまま言う。辺りを静寂が包む。
 「まあさ、でもさとし最近少し元気になったね。よかった」
バーミヤンは静寂を切り裂く様に声を出す。
 「それはいいけど、あんた悩みは解決したの?」
テイジーがさとしを真っ直ぐに見つめ尋ねる。
 「え?悩み?何でしたっけそれ。もういいじゃないですか、こうやって盛り上がってきたんだし!」
さとしは呆気らかんとした表情を無理やり作り呟く。
 「さとし、それは違うよ」
シームレスがボソッと言う。さとしはシームレスの方を向く。
 「本当に盛り上がってる?」
シームレスは続けて言う。
 「え?」
さとしは浮かない表情を浮かべる。
 「私はね、本当の盛り上がりって違うと思う。悩みが何かを忘れることが解決することじゃない」
シームレスは淡々と言う。
 「一番を求めたいけどそれを得られなかった自分、さとしはどうすることにしたの?」
テイジーも鋭い視線でさとしを見つめつつ尋ねる。
 「……関係ないじゃないですか」
さとしは不機嫌そうな表情をしながらボソッと呟く。
 「だから私達にも関係あるし、それにあんたにとっては少なくとも一番関係のある話だよ」
テイジーは強い口調で言う。
 「そんな忘れちゃうくらいの悩みだったんだ、切ないな、ハハハ」
ハイコも笑顔で呟く。
 「あんなに落ち込んでたのにそれでいいの?」
トビーも優しく語りかける。
 「…だから、だから何でそうやって思い出させるんですか!元気づけてくれてたんじゃないんですか!元気になったならそれでいいでしょ!」
さとしは大声で怒鳴る。
 「本当の解決をして欲しいんだよ!忘れたふりじゃ何も変わらないから!」
テイジーは声を張り上げる。
 「ドンさん!何とか言ってくださいよ!ゼロベースでしょ?だから忘れることにしたんですよ!」
さとしはドンの方を向き怒鳴る。古びた茶色い革のソファに座っていたドンがゆっくりと立ち上がる。
 「違うよさとし。ゼロベースで考え直すことが大事。忘れることは考えることをやめることだから」
ドンは静かに語る。
 「せっかく……せっかく楽しくなったのに、そうやって乗せといて落とすんですか。最低ですね。結局良いこと言ったってそうなんですよ。苦しんでるやつが好きなんですよね」
さとしはふてくされたような態度で言う。
 「いい加減にしろ!」
バーミヤンが思いっきりさとしに平手打ちをする。打たれた左頬を抑えながら茫然とするさとし。
 「強くなろう、一緒に」
バーミヤンは落ち着いたトーンで言う。
 「……」
さとしは目に涙をうっすらと浮かべ、頬を抑えながら無言で屋上から出ていく。その後ろ姿を見つめる面々。屋上のドアを開けたまま階段を降りていくさとし。
 「これで、よかったのかな」
バーミヤンがボソッと呟く。
 「しょうがないよ。さとしにはちゃんと元気になってもらいたいから」
テイジーも小さい声で呟く。バーミヤン、ハイコ、トビー、ドン、シームレスも無言で頷いている。

 103号室。玄関のドアが開き、左頬を抑えたさとしが入って来る。そのままベッドへとうつ伏せに倒れ込むさとし。
 「……」
無言で息を荒げているさとし。
 「……なんだよ……」
微かに声を出すさとし。
 「……オレにだって言いたいことあるのに……」
そう呟きベッドのシーツを強く握るさとし。

 マルミエール戸越屋上。面々が静かにお酒を飲んでいる。秋の風が屋上を吹き抜ける。
 「もうだいぶ涼しくなったね」
バーミヤンが空を見上げて言う。
 「そろそろ涼しくなって貰わないと。夏は楽しいけどずっと夏でも疲れちゃうし」
テイジーが呟く。
 「でもさ、夏とか冬ってどっちも身体的には快適じゃないけどみんな好きだよね」
ドンが言う。

 103号室。さとしがベッドにうつ伏せのままの状態で寝ている。
 「……一番言いたいこと……」
さとしは顔を上げ、部屋の隅の壁に立てかけられたエレキギターを見る。しばらくエレキギターを見つめた後、立ち上がるさとし。ギターのネックを掴み持ち上げる。

 マルミエール戸越屋上。6人がしみじみとお酒を飲んでいる。古びた茶色い革のソファーに座っているドン。ソファーの肘掛に腕組みをして腰かけているテイジー。地面に胡坐をかいているバーミヤン。七輪の網の焦げ目を箸で突っついて笑っているハイコ。バンドセットのドラムの椅子に腰かけているトビー。屋上の柵の隙間の間隔を再び確かめているシームレス。
 「何で屋上には柵があるんだろうね」
シームレスがボソッと呟く。バーミヤンがシームレスの方を見る。
 「面白いよね。人は柵がないと落ちちゃうんだよ。何で簡単に落ちれるのに、勝手には上がらないんだろうね」
シームレスが柵を叩きながら呟く。
 「万有引力の法則」
トビーが呟く。
 「まさかアイザックの言葉?」
ドンが言う。
 「そう、ニュートン。落ちるのって悪いことじゃないんじゃないかな。みんな下に引き付けられてるからこそ、こうやって近くにいられるんじゃないかと……思う。下に居てこそ」
トビーが茨城訛りで語る。
 「アイザック・ニュートン!引力で愛ザックザク!ハハハ!」
ハイコが笑う。ハイコの笑い声だけが屋上に響き渡る。再び黙り込む6人。雨がポツポツと降り始める。
 「雨だな、そろそろ片付けようか」
ドンがそう言い立ち上がろうとした時、屋上のドアが開く。
 「はぁ、はぁ……」
階段を駆け上がって来たように息を荒げてドアの前に立つさとし。そのさとしを見つめる6人。さとしは無言でギターのケーブルをアンプに繋ぐと思いっきり弦を弾く。
 「ジャーン!!」
大音量のエレキギターの音が屋上に響き渡る。
 「……お前らさ、オレを元気にする前に自分のこと元気にしろよ!バカじゃねーの!?」
大声で怒鳴るさとし。無言のままさとしを見つめ続ける6人。雨脚が強まる。さとしがエレキギターを抱えたままバーミヤンの目の前に歩いて行く。
 「やりたいことあるなら全力でやったらいいじゃないですか!ってかやれるよ!」
シームレスの前に歩いて行くさとし。
 「素直になれない時は嘘ついたっていいじゃないですか!その方が素直だよ!」
テイジーの前に歩いて行くさとし。
 「時間なんてあってないようなものだから気にしなくていいじゃないですか!」
ドンの前に歩いて行くさとし。
 「考え過ぎないでたまには理不尽にわめけばいいじゃないですか!」
トビーの前に歩いて行くさとし。
 「怖いなら自分を守ってもいいじゃないですか!」
ハイコの前に歩いて行くさとし。
 「悲しい時は泣いたらいいじゃないですか!」
さとしは全員に対して怒鳴り散らした後、足を止める。茫然とさとしを見つめ続ける面々。
 「これが……これがオレが一番言いたかったことです!悪いけどオレがこのマンションで今一番めちゃくちゃなこと言ってますよ!」
さとしは俯く。
 「オレ……決めました。一番を得るために、何かを諦めるのはもうやめます」
そう大声を出すと顔を上げるさとし。屋上は静まりかえり、雨音だけが聞こえる。
 「だから……仲間に入れてください!」
さとしはそう呟くと、いびつな笑顔で微笑む。

黙り込むバーミヤン、ドン、ハイコ、テイジー、シームレス、トビー。
「さとし……」
ドンが小さい声で言う。
 「オレら……」
バーミヤンも絞り出すような声で言う。
 「初めから仲間だよ!?」
優しく微笑むバーミヤン。
 「さとし……」
ハイコがいつになく小さい声を出す。
 「おかえり!」
満面の笑顔で微笑むハイコ。さとしを見つめ笑顔で頷いているバーミヤン、ドン、テイジー、シームレス、トビー。
 「た……ただいま」
雨にびしょびしょに濡れた顔に満面の笑顔を浮かべ、涙を流すさとし。雨に濡れながら笑顔で動き出す面々。トビーがドラムの椅子に座り直し、シームレスはキーボードの前に立ち、ドンはベースを掛け、ハイコはバイオリンを持ち上げ、テイジーはギターを手に取り、バーミヤンがマイクスタンドの前に立つ。
 「マルミエーズ初ライブ!観客は0!ハハハ!」
ハイコが笑う。
 「観客は7人だよ、誰が観客は演奏しちゃいけないって言った?」
シームレスが笑顔でボソッと言う。
 「そっか!ハハハ!」
ハイコが笑う。
 「良いライブになりそうだ」
ドンが呟く。
 「それじゃいこう」
トビーも面々を見つめ言う。
 「やっと、ギターが弾けるよ」
テイジーが微笑み呟く。
 「テイジーさん、まさかまだ……」
さとしは唖然とした表情をする。面々と向かい合う形でエレキギターを持ち立ち尽くすさとし。
 「それじゃ、聴いて……『自心』」
バーミヤンが落ち着いた声で言う。トビーがドラムスティックでカウントを取る。
 「1、2、1、2、3」
ドンがベースを、テイジーがアコースティックギターを弾き始め、トビーがドラムを叩き始める。優しい旋律が秋の戸越の空に響き渡る。
 イントロの途中からシームレスのキーボード、ハイコのバイオリンが入る。真剣な顔つきで、演奏する面々を見つめているさとし。バーミヤンがスタンドのマイクを左手で押さえ、歌い始める。
 「♪こたえ見えずに~やめたくもなるわ、何もしたくない~」
ベースを弾きながらドンがもう一つのマイクスタンドの前に立つ。
 「♪(ラップ)黙ってやってきてまだまだだって、中身単に未だに裸だなって、悩んで傷んでも日々やるの、だけどそこに一体どんな意味あるの?」
ドンのラップの後、再びバーミヤンが歌う。
「♪そんな中ひとつだけ確かだったことは~、私は私のまま、いたい~」

 駅からマルミエール戸越へと続く道。リカが歩いている。
「さとし……謝らなきゃ……」
リカは呟く。その時遠くからバンドの演奏の音が聞こえてくる。空を見上げるリカ。

 マルミエール戸越屋上。バーミヤンが歌っている。
 「♪歩く、歩き出してそこから初めてはじまる~、意味がない、人が言っても~」

 歩いているリカ。マルミエール戸越に近づくに連れて大きくなる演奏の音と歌声。早歩きになるリカ。マルミエール戸越のエントランスに付き、鞄から取り出した鍵で自動ドアを開け中に入るリカ。

 さとしは涙を浮かべ茫然としている。歌い続けるバーミヤン。
 「♪向かう、向かい続けそこから全てつながる~、形見えずいくらもがいていても~」
ドンがマイクを掴む。
 「♪(ラップ)轍をこの地に私の形に」
ドンがラップを挟む。
 「♪こたえ創る~、私のこころ」
笑顔を浮かべるバーミヤン。依然として茫然として聴いているさとし。バーミヤンとハイコがさとしの腕を掴み引っ張る。バンドの中に入るさとし。エレキギターを鳴らすさとし。
 「♪(ラップ)後いくつ越えればたどり着く?など理屈並べて迷い苦痛、感じたかねーが、単に高めな、壁見て諦めがんじがらめだ」
ドンが再びラップを入れる。エレキギターで演奏に参加しているさとし。
 「♪この道選び進んでいいのかな?間違いたくはない~」
歌い続けるバーミヤン。楽しそうに演奏をするトビー、テイジー、ハイコ、シームレス。
 「♪そんな中、いつも変わらず想い続けたこと~、私は私になりたい」
とその時屋上のドアが開き、リカが入って来る。リカを見て微笑む面々。驚いた顔をしているさとし。演奏の音が小さくなる。
 「♪歩く、歩き出してそこから初めて始まる~、意味がない、人が言っても」
演奏するさとしを見つめているリカ。再び盛り上がる演奏。
「♪向かう、向かい続けそこから全てつながる~形見えずいくらもがいても」
真剣にエレキギターを弾くさとしの姿。
 「♪望む、望んでみるそこから初めてはじまる~、続く道そこになくても」
満面の笑顔で演奏する面々。
「♪笑おう、笑顔忘れず私を信じて歩く~、暗闇にひとり立ったときでも、こたえ創る、私のこころ」
 「♪(ラップ)轍をこの地に私の形に」
ドンのラップが入る。
 「♪こたえ創る、私のこころ」
アウトロを演奏する面々。さとしはギターを弾きながらバーミヤン、ハイコ、ドン、テイジー、シームレス、トビーの顔を見る。
演奏が終了する。満足気な表情を浮かべる面々。涙を浮かべ拍手をするリカ。静まり返る屋上。
「リカ……」
さとしがボソッと呟く。
 「さとし……ごめん。私……子供過ぎた……」
リカは低いトーンで言う。
 「お前は、オレにとっての一番だって……この歌の二番の途中で気付いたよ!」
声を張り上げて言うさとし。
 「さとし……」
微笑むリカ。
 「このタイミングで冗談入れるなんて、さとし普通じゃないね」
シームレスがボソッと言う。笑う面々。
 「アンコール、アンコール!」
いきなり手を叩き声を上げ始めるハイコ。
 「アンコール、アンコール!」
バーミヤンも合わせて声を出す。
 「アンコール、アンコール!」
ドン、トビー、シームレスも声を出す。その様子を見つめるさとしとリカ。
 「ア、アンコール、アンコール」
手さぐりな感じで声を出すさとしとリカ。
 「イエーイ!もう一回みんなで演奏しよう!」
バーミヤンがそう声を掛ける。再び演奏を始める面々。『自心』のメロディーと歌詞が、再びさっきよりも一層大きな音で戸越の街に響き渡っている。

第七章 それでも

 マルミエール戸越屋上。雨が上がり水溜りが所々にできている。ビールやチューハイの空き缶が転がっている。古い茶色い革のソファーの上で一人眠っているバーミヤン。秋風が屋上を吹き抜ける。
 「ん……?」
寝ぼけ眼で上半身を起こすバーミヤン。
 「さぶっ!」
右手で左肩、左手で右肩を抑えた状態で小走りで屋上の扉へと向かうバーミヤン。

 マルミエール戸越一階。二階へと続く階段から、肩を抑えたまま降りてくるバーミヤン。
 「うー、さぶっ」
そう言いながら102号室のドアを開け中へと入るバーミヤン。

 マルミエール戸越103号室。ベッドで眠っているリカ。その下の床にうつ伏せで眠っているさとし。さとしは微笑みを浮かべたまま眠っている。

 薄暗い駅からマンションへの道をスーツ姿で歩いているさとし。
 「あー疲れた。またこんな時間かよ、やってらんねー」
さとしはそう呟き溜息をつく。その時何者かがさとしの肩を叩く。
 「さとし、やってられないの?そんなこと言ってもまた明日もやってられちゃうんでしょ?」
さとしが振り返るとシームレスがボソッと呟いている。
 「うわ!びっくりした!」
驚くさとし。
 「やってられないのにやってられるならやってやれば?一番になるかもよ」
シームレスは更にボソッと言う。
 「いや、オレはもうやってられないんです!やりたいことを、一番を探してる途中だからやってられなくてもやってるんです!」
さとしは強い口調で言葉を返す。
 「そっか、なら言うことないかもね」
シームレスはそう言うとさとしの前を歩き、マンションへと入って行く。
 「素直?」
さとしはシームレスの後ろ姿を見て呟く。

 マルミエール戸越103号室。さとしがエレキギターを抱え控えめに弦を抑えたまま弾いている。
 「ドンドンドン!」
その時玄関のドアを叩く音がする。
 「なんだ?こんな時間に……」
そう呟くと時計を見るさとし。深夜0時を回っている。玄関へと向かうさとし。ドアを開けるさとし。
 「さとし!醤油貸そうか?」
バーミヤンが醤油を持って立っている。
 「は?今何時だと思ってるんですか!」
さとしは大きめの声を出す。
 「ごめんごめん、醤油貸すから塩麹貸して。どうしても塩麹が食べたくなって眠れないんだ」
バーミヤンが切なそうに言う。
 「あの、塩麹って醤油ほどメジャーな調味料じゃないんで普通持ってないですよ!」
さとしは嫌そうな顔をして言う。
 「そっか……」
残念そうな表情のバーミヤン。
 「まったく、どのくらい塩麹食べたいんですか?」
さとしが尋ねる。
 「そりゃ……すげー食べたい。塩麹が食べたいって想いにスーパーひとしくん出せるね」
バーミヤンは言う。
 「分かりましたよ、ちょっと待っててください」
さとしはそう言うとキッチンへと向かう。
 「さとし、一番は手に入れられそう?」
バーミヤンは玄関からさとしに話しかける。
 「それは今探してますよ」
さとしはキッチンの下の戸棚に顔を突っ込みながら応える。
 「そっか、早く見つかるといいね」
バーミヤンが笑顔で呟く。
 「あった!」
さとしがキッチンの下の戸棚に顔を突っ込んだまま大きな声を出す。
 「え?そんなとこにあったの!?」
バーミヤンは目を丸くして尋ねる。
 「ほら!」
さとしは塩麹の袋を玄関のバーミヤンに向かって見せる。
 「え?さとしの一番ってそれ?」
バーミヤンは驚いた表情をしている。
 「そう、塩麹造りに人生を……かけないから!あんたが塩麹食べたいって言うから探してたんでしょ!こんなんが一番なわけないでしょ!」
さとしは大きな声でツッコむ。
 「こんなんって……さとし、それは酷いな、塩麹に謝ってもらっていいかな?」
バーミヤンが少しムスっとする。
 「え?何で謝んなきゃいけないんですか!」
さとしは言い返す。
 「オレは塩麹に今この瞬間は全てを懸けたんだ、塩麹を使って料理をすることに全てを懸けたんだ、それなのに塩麹に失礼だよ、さとし!」
バーミヤンはいつになく大声を出し、さとしに掴みかかる。
 「ちょっと!バーミヤンさんらしくない!」
さとしはバーミヤンに掴まれた肩を振りほどこうとして取っ組み合いになる。その物音を聞いてドン、テイジー、トビーが103号室の玄関に集まってくる。
 「どうした!?」
ドンが片手に本を持った状態で声を出す。
 「何もめてんの?」
テイジーがギターを肩に掛けたまま駆け寄ってくる。
 「何があった?」
トビーが首からタオルを下げ洗面器を持って現れる。
 「バーミヤンさんが……」
バーミヤンに掴まれたまま声を出すさとし。
 「あー、バーミヤン、どんまいどんまい。人生山もあれば谷もあるし、川があれば海もあるし、元気があれば何でもできる、1、2、3、4、5、6!そう今日は10月6日だよ、ハハハ!」
そう言いながらエントランスから入って来るハイコ。
 「ありがとう、ハイコ」
そう言うと大人しくなるバーミヤン。
 「あー、そっか」
ドンもバーミヤンを見て頷いている。テイジー、トビーも同じく無言でバーミヤンに向かって頷いている。
 「ありがとう、みんな」
そうボソッと言うと102号室へと戻って行くバーミヤン。不思議そうにその光景を見つめているさとし。
 「え?何がどんまい?」
さとしは尋ねる。
 「オーディション落ちたんだよ、たまにあるんだよ、あいつにも取り乱す時はね」
ドンは静かに呟く。
 「でさ、さとしはどうなの?」
テイジーが真っ直ぐにさとしを見つめ尋ねる。
 「え?」
さとしは聞き返す。
 「そうそう、みんな気にしてる」
トビーも呟く。
 「急かすつもりはないけどどうなのか心配だね」
ドンも言う。
 「ホント。朝刊の一面飾れるくらいみんな大注目だよ、ハハハ!」
ハイコが笑う。
 「そんなスグにまとまりませんから!しばらく考えさせてくださいよ!ほっといて下さい!」
さとしは怒鳴る。
 「そっか、考えるのは大事だね」
ドンはそう呟くと手を上げ二階へと続く階段を上がって行く。
 「楽しみにしてるよ」
テイジーもそう呟くと階段を上がって行く。トビーも無言で頷くと洗面器を持ったままエントランスを出ていく。
 「楽しみだね!あ!まさかり磨かなきゃ!ハハハ!」
ハイコもそう言うと階段を駆け上がって行く。
 「ふぅ」
溜息を付き玄関のドアを閉めるさとし。ドアを閉めるとその場に座り込むさとし。
 「あの人たち……やっぱ人のプライベートにツッコみ過ぎで若干うざいわ」
複雑な表情で呟くさとし。

第八章  輪廻

 マルミエール戸越103号室。カーテンが開かれた窓から朝日が注ぎ込んでいる。開けてある窓から爽やかな秋風が吹きこむ。秋風を体に受けながら、ベッドに座りエレキギターをかき鳴らしているさとし。
 「だいぶ勘が戻ってきた」
そう言うと少し微笑むさとし。
 「土曜の朝ってなんでこんなに気持ちいいんだろー、そうか!まだ酔いが冷めてないからか!うわ、気持ち悪……ハハハ!」
 「大丈夫かハイコ!そこで吐いちゃだめだよ、さとしんちのベランダだよ!」
ハイコとバーミヤンの声が窓の外から聞こえる。ギターを放り投げると立ち上がり窓に向かい、窓を開けるさとし。
 「って人んちのベランダで何してるんですか!」
さとしは思いっきり窓を開ける。すると塀の向こう側にハイコとバーミヤンが立っている。
 「あれ?なんでそんなとこに……」
ベランダにいないことに驚くさとし。
 「え?普通にここ国が作った道だよね?いちゃいけない?税金もまともに払えてないオレはいちゃいけない?」
バーミヤンが言う。
 「え?い、いやそんなことないっすよ」
さとしは少し焦って否定する。
 「どうせ音楽も、社会の一員としても中途半端だよ。いいんだ、オレなんて。この前なんて見ず知らずの人に手で×を書かれたんだ。ダメってことなんだ。こうやって×を……」
そう言うとバーミヤンは十字架を作るジェスチャーをする。
 「それ×じゃなくて十字架ですよ!むしろ人が罰から逃れるためにやるやつです!」
さとしはベランダから外に向かってツッコむ。
 「え?そうなの?」
バーミヤンはきょとんとしている。
 「そうですよ!だからバーミヤンさんは凄いんですよ!」
さとしは大きい声を出す。
 「伊達に紀元前から生きてないね!ハハハ!」
ハイコがバーミヤンの背中を叩いて笑う。
 「お、おう!よっし、やる気出てきた!」
バーミヤンは空に向かってガッツポーズをする。
 「てか外にいるなんて珍しいですね?どこ行くんですか?」
さとしが尋ねる。
 「ゴルゴタの丘!ハハハ!」
ハイコが笑う。
 「ってそこ一番いっちゃだめなとこ!」
さとしはツッコむ。
 「え?そこ楽しいの?」
バーミヤンが相変わらずきょとんとした顔で言う。
 「楽しくないです!だからどこ行くんですか?」
さとしは再度尋ねる。
 「かきね寿司だよ!」
バーミヤンは言う。
 「え?かきね寿司ってマンションの外にあるあのかきね寿司ですか?」
さとしは尋ねる。
 「そうだよ、あそこの寿司はこのマンションのクソ大家がやってて高すぎるから滅多にみんな行かないんだけど、今日はハッピーデーだからね!ハハ」
ハイコが笑顔で言う。
 「マルミエール気に入ってるのにクソ大家って!」
さとしはハイコにツッコむ。
 「マンションと住んでる人は好きだけど、大家はクソなんだもん、ハハハ!」
ハイコが笑顔で暴言を吐く。
 「さとしも来なよ!調度今呼ぶところだったんだ」
バーミヤンが言う。
 「あ、じゃあ行きます。でも何がそんなハッピーなんですか?」
さとしは不思議そうに尋ねる。
 「今日の午後ね、新しい仲間が引っ越してくるんだ!二階のテイジーの隣の部屋空いてるでしょ?あそこ!だからクソ大家からどんな人が来るのか聞こうと思って!」
バーミヤンが嬉しそうに言う。
 「だからバーミヤンさんまでクソって!大家さんかわいそう!会ったことないけど!新しい人か……とにかくオレも行きます」
そう言うと窓を閉めるさとし。

 マルミエール戸越一階のエントランスの右側の小さな寿司屋。『かきね寿司』と書かれたのれんがかかっている。

 寿司屋の中の座敷席に座っているさとし、バーミヤン、ハイコ、ドン、テイジー、トビー、シームレス。
 「半年以上住んでますけど初めて来ました」
周囲を見回しながら呟くさとし。
 「まあ来ない方がいいよ」
ドンがいつになく低いトーンで言う。そこへ寿司屋の店員のおじさんが伝票を持ってやってくる。
 「おうお前ら!めずらしいじゃねーかこんにゃろう!早く注文しやがれこんにゃろう、べらんめえ!」
江戸っ子口調で話かける店員のおじさん。
 「大家さん久しぶりです」
ドンがボソッと言う。他の面々は何も言わない。
 「マンションライフはどうだこんにゃろう!べらんめえこんちくしょう!」
激しく江戸っ子口調の大家。
 「楽しくやってます。とりあえず梅のセットを人数分ください」
低いトーンで注文するドン。
 「梅かよこんにゃろう、べらんめえ!了解したよこんにゃろう、べらんめえ!」
そう江戸っ子口調で言うとカウンターへと向かう大家。
 「ホントあのクソ大家、まともに話もできない、はぁ」
真面目な表情で溜息をつきながらハイコが言う。
 「えええ?確かに江戸っ子過ぎたけど、ハイコさんが話できないって、そんなことあるんすか!?」
さとしが目を見開いて驚いている。
 「あいつはクソだよ、悪い人じゃないけどクソなんだよなぁ。戸越って江戸を越えたところってのが由来だけど、あいつは江戸超え過ぎなんだよなぁ」
ドンも言う。テイジー、トビー、シームレスも頷いている。
 「あ、お茶……じゃなくてあがりもらいたい」
シームレスが呟く。
 「オレ頼みますよ。すみませーん!」
さとしがカウンターに向かって手を挙げる。
 「なんだべらんめえ!」
大家が大きい声で聞き返す。
 「お茶もらえますか?」
さとしが大声で頼む。
 「……」
無言の大家。
 「お茶!ください!」
さとしは更に大きい声を出す。
 「……」
聞こえてないのか無言で魚をさばいている大家。
 「お茶ください……あがりください!」
さとしは渾身の大声を出す。
 「あ?あがりな!始めっからあがりって言えべらんめえこんちくしょう!お茶とか専門用語使ってんじゃねーぞてやんでい、なんでんかんでん!」
湯呑を取り出しながらブツブツと言い続ける大家。面々の方を振り返るさとし。
 「なんでんかんでん……あれは……クソですね」
大きく頷く面々。

 かきね寿司の外。さとし、バーミヤン、ハイコ、ドン、テイジー、トビー、シームレスが店から出てくる。
 「結局新しい仲間のこと一つしか聞けなかったな……」
ドンが憔悴した顔で言う。
 「男……ってことだけ」
トビーもボソッと言う。
 「その百倍は『べらんめえ』って聞いた気がします……」
呟くさとし。
 「さとしが来る日もかきね寿司行ったんだよ。そして103号室に入るという情報しか貰えなかった」
シームレスがボソッと呟く。
 「土曜の朝が台無しだよ、べらんめえ……ハハハ。笑えない」
ハイコが暗い表情で無理して笑う。
 「まあ気を取り直して鼻見の買い出し行って来るよ!」
テイジーはそう言うと歩き出す。その時面々の前、マルミエール戸越のエントランスに一人の若者が立っている。中肉中背でこれと言った特徴がない若者。
 「お、新入り!?」
バーミヤンが手を挙げる。その声に面々の方を振り向く若者。一度合った目を逸らしエントランスへ入って行く若者。
 「おーい!」
エントランスに向かい走り出すバーミヤン。

 マルミエール戸越エントランス内。二階へと続く階段を上がって行く若者。そこへバーミヤンが勢いよく自動ドアから入って来る。
 「新入り!ちょっと待って!」
バーミヤンが笑顔で大きな声を出す。肩をビクッとさせ振り返る若者。
 「……」
無言で驚いた表情を浮かべバーミヤンを見つめる若者。
 「あ、ごめんいきなりでかい声出して」
バーミヤンは頭を掻く。バーミヤンの後ろに続いてドン、さとし、ハイコ、テイジー、トビー、シームレスが入って来る。
 「……ジーザス」
若者は胸の当たりに手を当て立ち尽くしている。
 「え?201に引っ越してきた人だよね?」
バーミヤンが尋ねる。
 「あ、はい。今日からお世話になります二階堂です」
若者は小さい声で言う。
 「二階堂?だから二階に行こうとしてたの?ハハハ」
ハイコが笑う。
 「201号室だから二階行くんでしょ!」
さとしがハイコにツッコむ。
 「……し、失礼します」
そう言うと逃げるように二階へと上がって行く若者。
 「あ……行っちゃった」
シームレスが呟く。
 「まあまあ、今日は鼻見もあるし後で異文化コミュニケーションしよう!」
ドンが笑顔で言う。
 「じゃあ今度こそ買い出し行くよ!」
そう言うとテイジーがエントランスから出て行く。
 「オレも手伝う」
そう言うとトビーもテイジーの後に続く。

 マルミエール戸越屋上。夕日が差し込んでいる。シームレスがクーラーボックスにビールやチューハイの缶を入れている。屋上に置きっぱなしになっているバンドセットの中からバイオリンを取り出し、古い茶色い革のソファに置き眺めているハイコ。ソファに座り読書をしているドン。サバの切り身が山盛りに盛られた皿を運んでいるさとし。七輪に火を付け団扇で仰いでいるトビー。その隣で腕を組み立っているテイジー。その時バーミヤンが屋上のドアから入って来る。
 「みんな、新入りがいくら呼んでも反応してくれないんだ……」
バーミヤンは悲しそうな顔をしている。
 「そうなの?まさかり貸すからドアぶち破っちゃいなよ!ハハハ」
ハイコがドアの方を振り返り満面の笑顔で言う。
 「そっか!その手が……」
バーミヤンが頷いている。
 「いや無いから!そんな力ずくでドア開けちゃだめでしょ!らしくないっすよ」
さとしがツッコむ。
 「そうだね。北風と太陽の話もあるしね」
ドンが言う。
 「北風と太陽なら私は南風に吹かれたい」
シームレスがボソッと言う。
 「それは気持ちよさそうだ」
トビーが言う。
 「南風の話は出てきませんから!」
さとしは大きな声を出す。
 「何で来ないのかな、遠慮してんのかな」
テイジーが言う。
 「何か理由があるんですよ……オレが行きます」
さとしが言う。
 「お、さとし!じゃあ一緒に行こう」
バーミヤンはそう言うとドアを出て行く。屋上の入口のドアへと小走りで向かうさとし。

 201号室前。バーミヤンがドアをノックする。
 「おーい!いないのー?いないならいないって言ってくれ!」
バーミヤンは大声で呼びかける。
 「二階堂さん、いないんですかー」
さとしも大きめの声を出す。
 「まさかりしかないか……」
バーミヤンは決心した顔でボソッと言う。
 「いやいや、まだ早いっすよ!時間がかかっても呼び続けましょう」
さとしはそう言うとノックをする。

 一時間後。
 「で、オレもそんなサバ好きじゃなかったんですけど鼻見で食べてからうまいな~って思ったんですよ」
さとしがドアに向かって語りかけている。
 「そうなの?さとしサバ好きじゃなかったの?」
バーミヤンがさとしに話しかける。
 「いや、嫌いじゃないですけどね、特別好きでもなかったです、って今二階堂さんと話してるんですよ!」
さとしは言う。
 「いいじゃん三人で話せば」
バーミヤンがすねた表情で言う。
 「そろそろ開けて下さいよ」
さとしが言う。
 「さとしの時はもっと時間かかったな~、楽しかった」
バーミヤンが言う。
 「オレの時って……そうか!まさかりでドアを開けるフリをすればビックリして出てくるかもしれませんよ!」
笑顔で呟くさとし。
 「そう言うと思ったよ」
バーミヤンはズボンの中からまさかりを取り出す。
 「えええ?そこに入ってたんですか?」
目を見開き驚くさとし。
 「はい!」
まさかりをさとしに渡すバーミヤン。
 「開けてくれないとまさかりでぶち破りますよ!」
そう言いながらまさかりを振りかぶるさとし。
 「何してんすか?」
とその時、さとしの背後から声がする。
 「何って、まさかりでドアを……」
まさかりを振りかぶったまま振り返るさとし。若者が冷たい目で見ている。
 「え?あれ?」
そう言うとさとしは若者と201号室のドアを交互にキョロキョロと見る。
 「犯罪ですよ」
若者はボソッと言う。
 「ち、違うんですよ、今から鼻見をやるから誘いに……」
焦るさとし。微笑みながらその光景を見ているバーミヤン。
 「花見?今秋ですよ?バカなんすか?」
若者はボソッと言う。
 「え……バカ……?」
さとしは唖然としている。
 「とにかくさ、今から上で鼻見って名前の飲み会やるからきなよ」
バーミヤンがさとしのまさかりを下におろしながら、上を指差して言う。さとしはまさかりを下ろすように窘められた感じに、怪訝な表情をしている。
 「それってまさか菜の花ですか……ジーザス」
胸のあたりに手を当て茫然とバーミヤンを見つめる若者。
 「菜の花の季節じゃないよ。今日は収穫祭だよ、秋サバの」
バーミヤンが言う。
 「収穫祭……ちょっとなら行きます」
そう言うと階段の方へと歩き出す若者。微笑みながら眺めているバーミヤン。まさかりを握り立ち尽くしているさとし。
 「……って家にいなかったのかよ!」
バーミヤンに手の甲でツッコミを入れるさとし。痛がるバーミヤン。
 「古傷が痛む……」
バーミヤンがボソッと言う。
 「いつのだよ!」
大声でツッコむさとし。

第九章  うざい

 マルミエール戸越屋上。屋上のドアからバーミヤン、さとし、若者が入って来る。
 「お、来たね!」
ドアの方を振り返り手を挙げるドン。ハイコ、テイジー、トビー、シームレスもドアの方を見る。
 「二階堂くん、屋上どう?」
バーミヤンがボソッと言う。
 「あ、何かすごい屋上っぽいっす」
辺りを見回しながら呟く若者。
 「でしょ、ここを屋上に見立てるのには苦労したよ。この上なく苦労した!ハハハ!」
ハイコが満面の笑顔で笑う。
 「ホント最高っすね、ソファとかもあって何か一つ屋根の下って感じっすね」
若者は無表情のままボソッと言う。
 「おーい!ボケ重ねるな!この上なくって屋上だからね!それと一つ屋根の上だから!」
さとしはハイコと若者にツッコむ。
 「ビールの人?」
シームレスが缶を片手に面々に問いかける。
 「あ、じゃあいただきます」
若者が手を上げる。発泡酒を若者に手渡すシームレス。
 「はい次、本物のビールの人?」
シームレスが黒ラベルを手に尋ねる。
 「はい!」
さとしが勢いよく手を挙げる。
 「よかったねさとし、第一のビールだよ」
シームレスがさとしに黒ラベルの缶を手渡す。
 「じゃあ一番搾りの人?」
ドンとテイジーが無言で綺麗に手を挙げる。缶を二人に手渡すシームレス。
 「ちくしょー!また一番が……」
さとしは膝から崩れ落ちる。その様子を不思議そうに見つめる若者。
 「じゃあハイコとトビーはチューハイね」
シームレスはハイコとトビーにチューハイの缶を手渡す。
 「それじゃ、新入りも加わったところで……」
ドンが古い茶色い革のソファから立ち上がる。
 「鼻見スタート!」
面々は缶を高く掲げ乾杯をする。若者も戸惑いながら輪に加わる。

 30分後。面々がサバを食べながらお酒を飲んでいる。
 「それじゃあだ名決めようか!」
ドンが言う。
 「そうだね、二階堂じゃ長くて呼びにくいし」
テイジーが言う。
 「じゃあ三階堂でどう?ハハハ!」
ハイコが大きな声で言う。
 「むしろ長くなってる!」
さとしがツッコむ。
 「なんかあだ名とかあった?」
シームレスが若者に尋ねる。
 「あんまないっすね。何でもいいっすよ」
若者は呟く。
 「そっか。下の名前は?」
シームレスが尋ねる。
 「健です」
若者が答える。
 「健か……いい名前だね!」
シームレスが高いトーンで言う。
 「普通だねって言わないんすか!」
さとしがシームレスにツッコむ。
 「健か、じゃあ高倉でいい?」
トビーが優しい声で言う。
 「絶対嫌っす。器用ですから」
若者は語気を強めて言う。
 「分かった、じゃあオレが決める!」
バーミヤンが手を横に広げて伸びをしながら言う。
 「そ、その恰好は……ジーザス」
若者はバーミヤンを真っ直ぐに見つめる。
 「オニューだな」
バーミヤンが言う。
 「オニューって!バッシュか!」
さとしがツッコむ。
 「オニュー、いいっすね、よろしくお願いします」
若者は胸の当たりに手を当てながら言う。
 「オニューか、悪くない」
ドンが言う。
 「よろしくオニュー」
テイジーが手を差し出す。握手をするテイジーとオニュー。頷いているハイコ、トビー、シームレス。
 「オニューさんさっきからバンドセット気にしてるみたいですけど、バンドやってたんすか?」
さとしがオニューに尋ねる。
 「え?あ昔ちょっとDJを」
オニューが低いトーンで応える。
 「へぇ、DJか、いいね!」
バーミヤンが言う。
 「そんないいもんじゃないっすよ」
オニューが言う。
 「なんで?」
テイジーが尋ねる。
 「まあDJやってたんすけどね、全然うまくならないんでやめたんです」
俯くオニュー。
 「そうなんだ」
テイジーが言う。
 「何でやめちゃったの?」
シームレスが尋ねる。
 「まあ学校も行かずにのめり込んでたんすけどね、だんだん周りが就職活動をする年齢になって友達とか両親からも咎められるようになって」
オニューは言う。
 「そんなの関係ねぇ!って言えばよかったのに!ハハハ」
ハイコが笑いながら言う。
 「まあそうなんすけどね。3年もやって全然上手くならなかったし、両親からは昔から失敗するな、無難にやるのが一番いい生き方だと言われて育てられたので、その時その言葉がグサッと来たんです。ホントはそんな生き方嫌で始めたDJなんすけどね、結局無難な生き方をするのが一番なのかなって思ったんです」
オニューは続ける。
 「無難な生き方ね、オレみたいな感じかな」
バーミヤンが頷きながら言う。
 「あんたは無難じゃない!」
さとしが軽くツッコむ。
 「それがきっと一番なんすよね。親もよく言ってました。『大体みんな私らくらいの年齢になると無難が一番だってことに気付くんだ』と」
オニューはボソッと言う。
 「そうなんだ、ってことは無難じゃなかった人が多いってことだよね?ハハハ!世の中比べないと分からないハズだからね」
ハイコが真剣な表情で笑う。
 「まあまあ、無難かどうかはさておきさ、失敗しないで生きるのは無理だよ」
ドンが言う。
 「そうだね。大体人間はこの世に生まれた時点で失敗してるからね」
シームレスがボソッと言う。
 「失敗の失敗は成功だ」
トビーがボソッと言う。
 「名言めいてるけどよく分かりません!」
さとしがトビーにツッコむ。
 「え?今の失敗したかな?」
トビーが頭を掻きながら言う。笑う一同。
 「とにかくさ、オレら最近マルミエーズってバンド作ったんだ。一緒にやろうよ!最高だよ!」
バーミヤンが笑顔で言う。
 「いや、もう音楽はやりたくないっす。もう二度と失敗したくないんで」
オニューは呟く。
 「いいじゃん最高だから!失敗とかはわかんないけどとにかく最高だからさ!」
バーミヤンは尚も笑顔で言う。
 「いくらジーザスの頼みでもできないっす。練習して上手くなってからならまだ……」
オニューが呟く。
 「でもさ、オニュー。3年やって上手くならなかったって思ったんでしょ?ならヘタでも今やっちゃおうよ。日が暮れて昇ってまた沈んで昇っての繰り返しを、指銜えて見てるだけで終わっちゃうよ」
テイジーが言う。
 「無理です」
オニューが呟く。
 「ヘタとか上手いとかどうでもいいんだよね、楽しくやろうよ!」
バーミヤンが言う。
 「ヘタだから楽しくないんです」
オニューは呟く。
 「でもオレらはすげー楽しめると思う、それじゃだめかな?」
バーミヤンが言う。
 「だからオレが楽しくないんですって」
オニューは少し強めに呟く。さとしが立ち上がる。
 「オレなんて一番を取れない男だ!」
屋上に響き渡る声で言うさとし。面々はさとしを見つめる。
 「でも、このマンションに来て1つだけ一番を手に入れられた」
さとしはオニューを見つめる。
 「オレは今が一番楽しいと思えるようになった」
さとしは続ける。
 「だからさ、一緒に失敗しようよ、一緒に失敗したら楽しいよ!」
さとしはそう言うと微笑む。
 「私も楽しくなる自信ある!ハハハ!」
ハイコが笑う。
 「オレも失敗しかしてないけど楽しくてしょうがないよ」
バーミヤンが言う。
 「オレも」
トビーが呟く。
 「私も」
シームレスがボソッと言う。
 「失敗しても楽しめる、そんな自信を持ってる」
テイジーが言う。
 「自分に嘘をつかなければ、失敗はしない」
ドンが言う。
 「自信……」
オニューは無表情のままボソッと呟く。
 バンドセットへと無言で歩いて行く面々。さとしがドラムの後ろからターンテーブルをおもむろに取り出す。ターンテーブルを見て目を丸くするオニュー。
 「何でターンテーブルなんて……」
口を開けたまま呟くオニュー。
 「昔ねクラブに行った時、すげーDJがいたんだ。上手いかは分からないけどスゲー楽しませてくれた」
ターンテーブルを台の上に置くさとし。
 「なぁ?DJ二階堂」
茫然としたままのオニュー。
「DJKenでした……」
ボソッと言うオニュー。
「え?」
頭を掻き微笑むさとし。トビーがドラムスティックを叩く。マルミエーズの『自心』の演奏が始まる。戸越の街に演奏と歌声が響き渡る。

 マルミエール戸越103号室。暗い部屋にエレキギターを持ったさとしが入って来る。電気をつけるさとし。エレキギターを本棚に立てかける。微笑むさとし。
 「うざいな、オレも」
エレキギターの置かれた本棚には、ペンギン、くま、恐竜のぬいぐるみが、それぞれが支え合うように置かれている。
                 
                 完

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